一年の始まりに

 

2016年が始まった。明けましておめでとうございます。

 

 

 また、明日から仕事が始まる。そのせいか、夕方頃からお腹が張ってきた。幼少期からの癖である。いわゆる過敏性腸症候群ってやつ。緊張するとお腹が張り便秘と下痢を繰り返す。ひどい時にはカエル腹のようになる(笑)。これがなかなかつらい。

 

 さて、今年は、昨年から続けてきた様々な勉強と思索を継続しようと思う。今日、難解な『正法眼蔵』を読み終えた。まだわからないことだらけだけど、何度も読んで自分のものにしたいと思う。禅の思想をもっと深めたい。また、古事記から始めた歴史の勉強、日本人の文化のルーツを辿る作業と思索も深めたい。

 

 そして、新しい試みとして、精神医学と芸術学の視点からの思索も進めていこうと思う。もともと3歳からヴァイオリンを習い絵画に親しんできて東京藝大で芸術の専門的な勉強をし、一度はその世界で食っていこうとまで考えていたわけだから、芸術学の視点を取り入れた精神医学の在り方、またその逆の、精神医学の視点を取り入れた芸術学の在り方を追求するのも僕にとっては自然なことだし、自分に課せられた使命でもあると思う。

 

 数年前、国立西洋美術館で開催された絵画展を観た帰りに、上野駅で藝大時代の女友達にバッタリ出会った。しばらく立ち話をしたが、帰り際に言った彼女の言葉が今でも印象に残っている。「藝大生は、一生、十字架を背負っている」と。

 そうかもしれないと思う。「人と同じ生き方をするのはダサい」というのが藝大生の気概だったしプライドだった。藝大に入った以上、人と同じ道は歩みたくないのだ。

 常識や権威なんてダッせえ。クソッくらえなのだ!

 

 

 さらに、『死』も今の僕にとっては大事なテーマだ。もちろん、死にたいと思っているわけではない。『死』を賛美するわけでもない。むしろその逆だ。

 人はいつか死ぬ。それは、どの人にとっても平等だ。だからこそ、生きているこの瞬間が愛おしいし大事なのだ。いつも『死』を意識して生きる。『死』があるから『生』が輝く。命を大事にしたいと思う。

 

 だからと言って、『生』にしがみつくつもりはない。いつこの命が消えても良いように、毎日を真剣に生きよう。あの坂本龍馬は、立場上常に刺客に命を狙われていた。だから、いつ死んでも良いように、死ぬ時の姿勢まで考えていたそうだ。『死』と『生』は、闇と星に似ている。闇が深ければ深いほど星の輝きは増す。

 

 おのずから、毎日の患者さんの診療も真剣勝負になる。プライベートの時間も同じように全て真剣勝負だ。

 

 

 

 生きるのは大変だ。

 でも、今年一年もガチで毎日を生きていこうと思う。

 

 

 

 

 

かなりお腹が痛い                          2016/1/3

 

 

 

 

 

 

一人と孤独とお気に召すまま

 

随分、ブログを更新していなかった...

 

年の暮れから忙しく慌ただしい毎日だったので、なかなか書くゆとりがなかった(汗)。

 

 

でも、今日は久しぶりに一日、の〜んびり。

訳あって、丸一日一人で過ごせる時間を持ててるので、誰にも気遣うことなく気ままに過ごせた。

基本的に、人がいると「いい子」をやってしまう。だから疲れる。

だから、僕は一人が合ってる。一人は気ままだし、孤独は好きだ。

 

遅起きして、コーヒーを煎れて、久しぶりにルービンシュタインのラフマニノフピアノコンチェルト第2番を流しながら読書して、それから録りためたTVドラマを集中的に観た。(ルービンシュタインの演奏はミスタッチが多いから若干期待はずれだったが...それはご愛嬌か)

 

今ハマってるのは、「フラジャイル」と、少し前にやってた「MOZU」。

それぞれ全然違うジャンルのドラマだけど、よくできてる。

 

特に、「フラジャイル」は好きだなあ。

あの、長瀬智也扮する主人公の「岸先生」がすごくいい。ああいう、一見偏屈で冷たそうだけど根は優しい人柄はいいな!って思う。僕は、どこか陰があったり少し偏っていたりしながらもきちんと筋は通す人柄に惹かれる。あの、「俺がいる限りは、俺の言葉は絶対だ!」という口癖は、少しやりすぎかなとは思うが(笑)。

 

彼の周囲を固める脇役陣もすごくいい。

小雪扮する岸先生の元恋人の女性外科医は大人の女性として美しくてカッコいいし、武井咲扮する新人病理医も経験不足で危なっかしいけど、人一倍患者想いで突っ走るところが気持ちいい。

北大路欣也扮する岸先生の元上司の教授は、女好きだけど医師としての経験は豊富で人間の器の大きさと深さを感じさせるとても魅力的な人物。この人の「相談外来」での患者さんや家族に対する一言一言は、まるでベテラン精神科医のような温かみと深さがある。

野村周平扮する病理教室の検査技師は、本当は医者になりたかったけど、医学部生時代に実家の経済的問題で学費が払えず中退した過去を持つ。医師になる夢を捨てきれずにもう一度医学部を再受験しようとするところは、僕自身の経験に少し重なるところがあって共感できる。

ドラマ自体も、各エピソードが医療の本質を鋭く突いていてリアリティがある。

 

昔「振り返れば奴がいる」という医療ドラマがあったけど、これもBDを買ってしまったほど大好きだ。織田祐二と石黒賢が出てたけど、悪徳医者役の織田がすごく良かった。偏屈でぶっきらぼうで自己中で傲慢なんだけど、本当は弱い面を抱えてる。医師としての技術はピカイチで実は患者想い。

 

僕は、そういう、ちょっと偏ったもの(人ばかりではなく物も)に惹かれる。

逆に、きちんとしていたり、整っていたり、正し過ぎたり、規則通りだったり、みんなと同じ・・・というのは嫌い。

 

そういえば、最近女子の間でワッペンつけたスタジャンが流行っているそうな。あれは、1960年代に男性の間で流行った。横須賀発のスカジャンっていうのもあったらしい。

でも、どうして皆んな同じような格好をしたがるんだろう?流行っていうけど、流行るからって皆んなと同じ格好しなくてもいいのに。その感覚がわからない。

 

皆んなと同じことがそんなにかっこいいのかな?。僕からすると、ダサいって思ってしまうけど。

 

皆と同じじゃないと不安なのかな?日本人ってそういうところあるでしょ?

 

あえて、皆と違う格好してたり、違う生き方してる方がずっとカッコイイ!と僕なんかは思うけど。

だって、人と違うように生きるのは勇気がいるからね。

 

 

僕自身が偏っているし偏屈なところがあるからかなあ....

僕のような人間がもう一人いたら、僕もあまり付き合いたくないだろうなあ。

群れるのが嫌いで、複雑で、頑固で、変なところに気を遣って、自分の希望とは逆の態度を示したり、あまり自分のことは言わないから何考えてるんだかわかんないし、劇画的で、どこか自虐的..

一言でいえば、バランスが悪いんだよね。

自分の感情表現と言動・行動のバランスが。

本当に、つきあうのが難しいだろう。

 

 

ああ... ヴァンゲリスの「BLADE RUNNER」に使われた「Love Theme」

がいい。

 

心にしみる....

 

 

........ああ、もう11時半か

 

そろそろ寝なくちゃ

 

また、明日から1週間が始まる。

季節の変わり目のせいか、この時期は毎年忙しい(汗)。

 

3月も後半に突入。

もうすぐ一年の四分の一が終わる。

 

早いなあ....

 

 

 

 

 

独身貴族にて                        2016/3/13

 

 

 

 

 

「一億総活躍・・・」

 

安倍首相が「一億総活躍社会」なる造語を作って国民に訴えましたね。

 

僕は、あの言葉を聞いた時、どこか違和感を覚えました。

 

「活躍」って何?

世の中には、活躍したくたって活躍できない人がたくさんいる。

経済的に困っている人、心や体の病気で苦しんでいる人、そして、震災にあって未だに住居や仕事が持てない人...

本当にたくさんの方々が活躍したくっても活躍できないじゃないですか。

日本は自殺大国で、毎年3万人前後の人が自殺で亡くなっているという現実もある。

 

そもそも、活躍の「活」は活動、活発、活気、快活etc...という「元気や生き生きとしている」意味に使われる言葉ですよね。「躍」も踊る、躍動、飛躍、躍起といった激しい動きを意味します。

つまり、「活躍」という言葉は、いつも生き生きしていて動きをともなう元気な状態をイメージさせます。

 

でも、そういう状態って疲れませんか?

毎日毎日活躍なんてできませんよ。

そんなの息が詰まっちゃう。

 

しかも、この言葉にはどこか、「お国のために、それぞれが持てる力を振り絞って貢献しなさい」といったニュアンスが含まれているような気がしてならない。あの、安保法案と重ねて考えてしまうのは僕だけでしょうか?

 

先日、『3・11』の特集を見て、改めて、震災地域の復興が進んでいないんだなあと感じました。仮設住宅に住んでいらっしゃる方も、まだ千数百人程おられるとか。津波で店舗を失った方が新しいお店を出したいけど、予算の問題があってできないでいるケースも多いと知りました。店舗がなければ生活ができませんから、人は外に出て行ってしまいます。戻ってはきません。それに、福島の原発の問題も、不気味に影を落としたままです。

 

このような、一向に回復しない景気、震災後の復興遅延、原発問題etc...それに加え、政治家の汚職等々...

 

こんな国の状況で、「総活躍社会」なんてよく言えたもんだと思います。

安倍首相の感覚が、どこか、国民の実生活や価値観とズレていると感じるからです。

 

それに反して、先日まで天皇皇后両陛下が、震災にあった東北地方にお見舞いに赴かれました。

その際の、震災に遭われた方々に向けたお言葉や、震災慰霊式典でのお言葉は、とても思いやりに満ちた、わかりやすくて優しいお言葉でした。

誰かさんのような、心が伴っていない形式的な言葉とは対照的だと感じました。

 

今の政治家に、国民の辛さや苦しさを理解している人がどれだけいるのだろうか?

そう感じざるを得ません。

 

 

 

今日は小春日和                     2016/3/19

 

 

 

 

 

 

 

 

居場所がない

 

よくこういう言葉を聞きます。

でも、居場所がないって、本当にいけないことなんだろうか?

 

そもそも、僕自身は幼少期から居場所がないって思って生きてきたし、今もそう思って生きてる。

本当に、心から安心できると思った場所はない。

 

そう言うと、多分普通の人は「何て寂しい奴なんだろう」って思うのかもしれないね。

じゃあ、そう言う人に聞きたい。「君は、本当に心から安らげる居場所ってあるのかい?」

 

僕は、そんなものあるわけがないと思う。むしろ無いのが自然だと。

 

そもそも、僕たちは、何故この世に生まれたのかわからない。

生まれたいと思った生まれてきたわけでもないのに、いつの間にかこの世に存在し生きている・・・または、「生かされている」。

つまり、生まれた瞬間から、なぜこの世にいるのかちゃんとわかっていないし、なんで生きなければいけないのかもわからないで存在しなければならない。

そんな曖昧な状況に放り込まれて、心から安心できる居場所なんてあるわけがないじゃないか?

だから、生まれたての赤ん坊はあんなに叫んで泣くんじゃないか?

 

 

親がいるからとか、友人がいるからとか、恋人がいるからとか、先生がいるからとか、結婚しているからとか、子供がいるからとか、孫がいるからとか、ペットがいるからとかいったって......所詮、それらは皆変化していく。いつかはいなくなる。消えてしまう。泡のように。

 

無常...

 

あの「方丈記」の冒頭にもあるように、この世の全ての事象はすべて移ろいゆく。

 

 

もし、そんな移ろいゆくものに心の居場所を見つけた!なんて感じているとしたらそれは錯覚じゃないのか?

なぜなら、それらはいつかは消えてしまうからだ。

消えてしまったら、居場所も消えてしまう。

そうしたら君はどうなる?

その依存度が大きければ大きいほど、君は自分を見失うだろう。

実際、子供が亡くなって後追い自殺する親がいるし、ペットが亡くなってからうつ病になってしまうペットロス症候群なんて普通にある。

 

そんなにもろいものが、果たして心の居場所なんだろうか?

そんな危ういものに居場所を求めて大丈夫なの?

 

 

僕には、心の居場所はない。本当に安心できる場所なんて無い。小さい頃からそう思って生きてきた。それは今も変わらない。

 

もちろん、人を好きになったり、尊敬したり、教えられたり...

そういった刺激や交流はあるけれども、それ以上に相手に全存在を預けようとは思わないし、また、預けられても責任は持てない。

僕が相手に居場所を見つけられないからこそ、相手の居場所にもなってあげられない。

僕は、いつもそういうスタンスで生きてきた。

 

でも、僕は、そういう自分のあり方を寂しいとは思わないしい冷たいとも思わない。

 

むしろ、本当は居場所がないとわかっているのに過剰に相手に依存してそれを求めたり、逆に居場所を作ってあげるなんて嘘吹いて見せかけの居場所を提供するような関係性の方が残酷で冷たいと思う。

 

 

本当の心の居場所なんて、最初っからないんだよ。

それをわかった上で、お互いが関係性を築くこと・・それこそが大事だと僕は思う。

 

 

そのためには、自分自身がその厳しい現実を受け入れた上で、精神的に自律していなければならない。

 

心の居場所なんて最初からないんだから、それを受け入れて、自分自身で自分を慰め生きていけるだけの力をつけていくこと。それが大事なんだと思う。

 

人がそれ以外の対象と良好な関係を築くためには、精神的な自律性と距離感が不可欠だ。

 

 

だから、今、友達や恋人がいないと思って落ち込んでる人...

大丈夫だよ。別にそんなのどうってことはない。

 

大事なのは、君が、君自身が、自分一人でも平気でいられることなんだ。

独りでいることから来る、不安、寂しさに平気になることなんだ。

 

人は、所詮、自分が一番可愛い。

だから、誰も助けてくれない。アドバイスや、それ相応の対応はしてくれるよ。愛情や思いやりや親切で。それは人間という動物の良いところ。

でも、それで、自分の心がすべて満たされるわけではない。

それで、生きる不安が消えるわけじゃない。

 

どんなに親切にされても、生きる不安、存在する不安は消えない。絶対に。

それは一生つきまとう。残念ながら。

 

その不安と一生付き合っていく勇気と覚悟......それが大事なんじゃないか?

そして、それを実現してくれるのは君以外の存在じゃない。

自分なんだ。

 

 

自分を救うのは自分でしかない。

でも、その力は、必ず誰もが持っているんだ。

自分を救う力は、君自身が持っている。

 

自分の本当の居場所は、自分の心の中にある。

 

 

 

 

 

 

明日からまた不安だ                     2016/3/21

 

 

 

 

 

 

 

7歳になりました

 

クリニックを開院させていただき、今日で満7歳になりました。

 

ちょうど開院の時のように、今年も茅野駅の桜が満開です。

そして、ちょうど開院した7年前も御柱祭の年でした。

 

7年経って、クリニックは成長しているのだろうか?そう思います。

まだまだ至らない点が多いとも感じます。

 

僕もスタッフも、もっと精進して成長しなければならない。

今年も、気を引き締めていきたいと思います。

 

よろしくお願いいたします。

 

 

 

冷たい風に桜がかわいそう                  2016/4/13

 

 

 

 

 

 










抱擁

先日の、オバマ米大統領の広島訪問。
その際、オバマ大統領が原爆被爆者の方を抱擁している写真が世界中に配信されましたね。
あの写真を見て、世界の人々はどう感じたでしょうか?
僕は、あの写真を見たとき、感動して自然に涙が溢れました。
いったい、誰があんなシーンを予想したでしょう?
今回のオバマ大統領の訪問では、いろいろなことを感じ、考えさせられ、感動しました。
原爆を落とした国と落とされた国
本当に微妙な「再会」…
世界中が、アメリカと日本が、「ヒロシマ」という地でどう向き合うのか注視していたはずです。
普通、「常識」では、原爆を落とした国が落とされた国に謝ると考えるでしょう。
日本に戦争責任の謝罪をさせたくってしょうがない「ある国」なんかは、アメリカが日本に謝ることを期待していたのではないでしょうか?もしアメリカが日本に謝れば、日本も周辺国に謝らなければならないという大義名分が立つからです。
しかし、オバマ大統領は謝らなかった。
もちろん、謝らない…謝れない理由はたくさんあるのでしょう。
オバマ大統領は、米国民の世論を背負ってますから。
原爆を落としたから戦争が終わったんだといったような、随分身勝手で冷たいアメリカの世論が根強くあるのも現実です。
しかも、今アメリカでは次期大統領の候補者選びの真っ最中です。
自分の行動一つで、自分が所属する民主党に不利になりかねません。
オバマ大統領は、ものすごくいろいろ考えたと思います。
そして、彼がとった行動……
それは、抱擁だった
 
謝るわけにもいかないし、謝らないのも道義上どうなのか…
 
その、どうしようもなく答えが出ない問題の先に生まれたもの…それが、「抱きしめる」
という行為だった。
 
人間は、苦しみや辛さが深ければ深いほど、言葉は通用しない。
お互いが触れ合うこと。
抱きしめ合うこと。
 
これは本当に勇気がいる行為だけど、相手への愛情、労わり、慰め、陳謝…といった、さまざまな気持ちを伝えることができる、とてもシンプルな行為だ。
オバマ大統領は、それを選択した。
一国の大統領としてというより一人の人間としてヒロシマに対した。
彼は立派だと思う。
 
日本も立派だった。
被爆者団体の方々も含め、アメリカに対して謝罪を要求することはなかった。
「謝ってほしいとは思いません。原爆によって傷つき苦しんだ事実を知ってもらい、二度とこのような過ちを繰り返さないで頂きたいのです」
被爆者団体の方の言葉です。
何と寛容なことでしょう。
 
…日本人の良いところ。
それは、聖徳太子が言った、「和をもって尊しとなす」。
「和」という概念は、日本人が古来から大切にしてきた精神です。
日本人は、本来、戦いを好む民族ではありません。
そして、「和」は「寛容」を生みます。
その精神で、原爆を落としたアメリカを赦したのではないでしょうか?
はっきりしない曖昧で軟弱な民族だという批判があるかもしれません。
でも、僕はそうは思わない。
日本の態度も、とても奥が深い、情の深い、ハイレベルな大人の対応だと思います。
 
 
僕は、あの「抱擁」のシーンを一生忘れないでしょう。
きっと、人類の歴史の中でもあんなシーンはなかなか見られないと思います。
 
相手への憎しみや恨みがあったとしても、世界中の人達が、あのオバマ大統領とヒロシマの被爆者の方のような「抱擁」ができたら戦争はなくなるでしょう。
 
人間は愚かな動物です。
お互いが傷つけ合い、自分をも傷つける。
 
人間を救う最後の手段は理屈や言葉じゃない。
きっと、もっとシンプルな行為なのではないでしょうか?
 
 
 
 
日本人は素晴らしい!                                                                                                                      2016/6/3
 
 
 
 
 
 
 

思い込み

北海道で行方不明になっていた小学校5年生の男の子が、無事発見されましたね。
わずかな傷で、命には別状ないそうです。
本当に良かった。
でも、この子は強いなあ!
お父さんが、「しつけ」のために置き去りにした場所から発見された自衛隊の簡易宿舎まで、直線距離で5キロもあるそうです。しかも、地元の人も滅多に入らないような奥深い山の中。子供の足だと、発見場所まで5、6時間はかかるそうです。
その子の話だと、行方不明になったその日のうちに発見場所に着いたとのこと。もしそうだとすると、真っ暗な中、一人で深い森の山道を歩いたことになります。
どれだけ、怖くて心細かったことか。
しかも、その子は、何も食べものがない中で水だけ飲んで過ごしていたとか。夜は気温が5度前後にまで冷え込む中で、簡易宿舎の2枚のマットレスの間で寝たそうです。
何という落ち着いた行動でしょう!
たいていは、こういう場合混乱してしまい、あてもなく山林を彷徨って事故に遭いひどい怪我をするとか、最悪は命を落としてしまうケースが多いでしょう。今回は、人間の生存維持時間の72時間を大幅にオーバーしていたので、なおさら奇跡的なことです。お父さんが「しつけ」なくても、この子はしっかりしてて大丈夫なのではないでしょうか?
ところで、このニュース…
僕は、いかに自分の頭が自分勝手か?ということを思い知った経験でもあったのです。
この子が行方不明になって日にちが経つにつれ、「お父さんが戻ってくるまでの5分くらいの間に、こんな小さな子が遠くに行くはずがない」「こんなに多くの人達が探してるのに見つからないのは、何か家族が隠していることがあるんじゃないか?」という考えが浮かんだのです。いわゆる邪推というやつです。実際、このお父さんは、世間体を気にして、最初は、置き去りにしたとは言わずに、山菜採りに来ていていつの間にかいなくなったと警察に説明していたのです。事が大きくなってから、世間の人に虐待だと思われたくなくて嘘をついてしまったと言っているという報道もあったので、僕は、何か裏があるんじゃないか?と考えてしまいました。その内に、自衛隊まで出動して大掛かりな捜索になってからは、その邪推は僕の中でどんどん大きくなっていきました。新聞やネットのニュースでも、僕が感じたようなニュアンスの記事が見受けられるようになりました。きっと、僕と同じように感じた方もいらっしゃったのではないかと思います。
ところが、事実は違っていた。
僕は、自分の浅はかな思い込みを恥じるとともに、男の子の生命力の強さをも知って、更に自分が恥ずかしくなりました。
何て自分勝手な考え方しかできないんだろう?
先入観や常識…そういった勝手な先入観や思い込みが間違った考えを生むのです。
人は、こんなにも自分の経験や知識の範囲でしか物事を考えられないのか???
それは、僕だけなのか!?
今までも、自分勝手な思い込みでずいぶんたくさんの誤解をしてきたんだろうな…
そして、多くの人を傷つけてきたんだろうな……
 
そう考えたら、自分が情けなくなりました。
 
もっともっと、思慮深い人間にならなければいけない…
そう反省した次第でした。
 
 
 
 
この子はきっと大物になる!                 2016/6/3  
                                                                                     
 
 

生きるのが難しい社会*1

つくづく、生きるのが難しい社会になったと思う。
今、学会で東京に来てるが、学会のシンポジウムを聞いてても、毎日ニュースで社会の出来事を知ってもそう思う。
もともと人間は不安や孤独とともに生きるものだが、最近は、その当たり前な気持ちを抱えきれなくて、自分を見失ったり破綻を来したりする人が増えているんじゃないか?と感じる。だから、自殺者も減らない。特に、若者たちにそういう傾向が顕著だと思う。
どうしてそうなってしまったんだろう?
それにはさまざまな要因が考えられるが、その中でも僕が考える大事なキーワードは……
「脆弱な親」、「アタッチメントの不在+ペット化された子供」→「自己肯定感の欠如」、「自己愛型人格=見捨てられ不安」、「群れなくなった社会(SNS、ゲーム等の普及)=つながりの希薄化=スキンシップへの抵抗」→「孤独感」+「不安耐性の脆弱化」→「生きる不安・孤独に耐えられない」……
資本主義、物質主義的豊かさ  etc.......
 
よく、クレーマーとかパワハラとかセクハラとかモラハラとか言うけど、そういう人達は、自分自身が常に不安で仕方がないんだよね。いつも欲求不満で、イライラしてて、不安で孤独なんだよ。見た目は強そうに見えるかもしれないけど、実際は、そういった自分の弱さの裏返しが、クレームだったり、パワーハラスメントだったり、セクシャルハラスメントだったり、モラルハラスメントだったりするんだよ。
だから、いつも他罰的。本当は自分に問題があるのに気づかないで、他人の責任にする。もちろん、イジメをしたり人の噂を流したり悪口や陰口を言ったりする輩もその類。
 
そういう人達は、本当はすっごく弱いんだよ。
僕は、そういう人達を「蟹」と呼んでいる。
「蟹」は、  なぜあんなに硬い甲羅で覆われている?それは、中味がとっても柔らかくて弱いから。そうしないと自分の身を守れないから。
人間も同じ。先述したような強がったり人を見下すような言動や行動をとる人は、クレームやパワハラやセクハラやモラハラやイジメや噂好きや悪口という「甲羅」で、弱くてどうしようもない自分を守ってるだけ。
そうしないと、自分の心のバランスが取れないから。
でも、そういうことに気づかないで自分は強いんだと思ってる幸せな人がどれだけ多いことか…。
 
そして…
更に、そういう人達が親になるとろくな事がない。
自分が弱いから、家庭の中でも「甲羅」で重装備して家族に接する。特に最も影響を受けるのが一番弱い子供。そういう親は、子供を虐待したり、ネグレクトしたり、自分の言うことを聞くようにペット化する。子供が自分の言うとおりにしていれば愛情を注ぐが、自分の言うことを聞かないと拒絶する。
そういう自分勝手な情緒的に不安定な親の元に生まれた子供は、親に愛されてるかどうか疑心暗鬼になり、親からの保証を求めるために常に親の顔色を伺うようになる。
今の自分で良いのかわからない。生きていて良いのかさえ確信が持てない。つまり、自己肯定感がとても低い(存在の不安)。
そういう家庭環境に育った人は、社会に出ても、自分に自信がなく、いつも他人の顔色を伺って生きるようになる。他人が本当に自分を受け入れてくれてるのかわからなくて、何か形になる保証が欲しい。それが過度な依存や強迫になり、見捨てられ不安につながっていく。
それくらい、親の在り方~特に母親の在り方は大事なんだよ。
5歳までのアタッチメントがいかに重要か…これは、さまざまな研究で言われてるし、僕も臨床上痛感している。
 
最近SNSが流行ってるけど、あれやってる人達の中には自分に自信がなくて自己肯定感が低い人が多いんじゃないか?って思う。だって、お互いに顔がわからなくても勝手に自分の言いたいことを伝えられるお気楽なツールなんだから。
 
お互いが面と向かって話をしたり触れ合ったりすることは人間にとって基本的でとても大事なことだと思うんだけど、今の若い人達は自分に自信がない人が多いから、嫌われるんじゃないか?悪く思われるんじゃないか?傷つくんじゃないか??って考えちゃって安易なSNSに走るんじゃないかと思う。最近は、大学に入る前にひとりぼっちじゃ嫌だからSNSであらかじめ友達?を作っておくのが当たり前みたいだし、ひとりで昼飯食ってると友達がいないと思われるのが嫌でトイレの個室で弁当を食べる「トイレ弁」も普通にあるみたいだし、手も繋がないカップルが増えてるって聞く…
 
僕には考えられないし、そもそも、顔が見えなくても関係が成立すること自体が気持ち悪いって思ってしまうんだけど。
これは、決して時代遅れとかそういうレベルの話じゃないと思う。
 
もし、こんな関係性が当たり前になってしまったら人間はおかしくなってしまうんじゃないかと思う。
 
………
 
まだ、さっきのキーワードについて全部話しきれていない(汗)。
 
とても複雑で奥が深い問題なので、なかなか一つのコンテンツでは話しきれない。
 
また、何回かに分けて話していこうと思う。
 
 
明日は学会最終日だ。
 
 
 
 
 
目の前に打ち寄せる波が美しい                                            2016/6/3
                                                                                        
 
 
 

レッド・ブル

皆さん、「エア・レース」= 「レッドブル」って知ってますか?


小型飛行機(セスナよりひと回り小さいかな?)で、会場に設置した大きなパイロンを縫って速さを競う競技です。
「空のF1 」って言われてます。
時速350km以上のスピードでパイロンの間をギリギリで通り抜けたり、ジグザグで飛行したり、急旋回したり…
10Gという強烈なGがかかる危険なレースで、世界中から選りすぐりのパイロットが集まって競います。それぞれの選手の経歴もすごくて、元空軍のパイロットで今はトップガンの教官やってるとか、現役の空軍パイロットでーす!っていう人もいる。
まあ、それくらいの腕がないとこの競技には参加できないんでしょうね。
その今年の日本選手権が、何と、今学会で泊まってるホテルの 目の前の海上で今日から行われてるんです!
今日は予選で明日は決勝。
ホテルの窓からは、ものすごい爆音を響かせながらまるで鳥にように自由に舞う飛行機が行き交うのが間近に見えます。
何てラッキ〜なんでしょう!
僕は高所恐怖症だから飛行機に乗るのはダメだけど、カッコいいなあ!!
子供の頃、パイロットにもなりたかったので憧れます。
やっぱ、空を自由に飛ぶなんて憧れませんか?
今度は、もっと近くの会場で観てみたい。
久しぶりの海はいいなあ                                                    2016/6/4
                                                               

 

人は、様々な場所に鍵をかける。

 

玄関、窓、金庫、車 etc..

なぜ?

大切なものを盗まれるから?

・・・とにかく、大切なものを守るために鍵をかける。

 

でも、人は不安になる。

もし、この鍵が壊れたり破られたらどうしよう・・・?

そこで、もっと頑丈な鍵にするか、鍵を二重三重にする。

最近は、指紋や網膜による認証キーなんてのもある。

そうやって、どんどん、鍵は人を寄せ付けないようなものになっていく。

 

でも、果たして、鍵をかけた人はそれで安心が得られるのだろうか?

 

笑い話のようだが、先日、鍵が壊れて外に出られなくなるということが起こった。外から入れないということは経験したことがあるけど、中から出られないという経験は初めてだった。幸い、裏口のドアから出られたが、外に出られなくて閉じ込められてしまうという感覚は、なんとも奇妙で、ある意味新鮮な感覚だった。

自宅の玄関は二重ロックだが、そのうちの一つが壊れたらしい。

 

心の鍵も同じかもしれない。

 

心に鍵をかけて容易に入られないようにしている人は、自分の心を開放できないから他人から理解されにくい。

また、他人の中に入っていくのも苦手だ。入って来られることに慣れていないから、自分から他人の中へどう入っていっていいかわからない。どのくらいの距離をとって良いかわからない。

 

つまり、うまく甘えられない。

だから、自分の居宅に人を招くのも嫌だし、他人の居宅に招かれるのも苦手。招かれた場所でも、どのように振る舞ったら良いかわからないから、必要以上に気を遣って遠慮したり過剰に甘え過ぎてしまったりする。

 

物の鍵も心の鍵も、『不安』から守る道具である。

 

鍵を厳重に掛ける人は、常に『不安』に敏感な人である。

鍵は、その人を『不安』から守る大事なツールだ。

 

ただ、気をつけないと、鍵が自分を自分の中に閉じ込めてしまうことになる。

 

多かれ少なかれ鍵は誰にでも必要なものだが、使い方が難しい。

 

人間という動物は、つくづく難しい生き物だと思う。

 

 

 

 

草木が輝く梅雨明け                   2016/7/31

 

 

 

 

 

  

リオ・オリンピック2016

いよいよ、ブラジルのリオデジャネイロでオリンピックが始まりましたね。

 

今回のオリンピックは、ブラジルで開催されるということで、僕にとっても特別なオリンピックでワクワクしてます。

もう、何度もブログで書いているので説明はいらないと思いますが、ライフワークがサンバなので、その聖地であるブラジルは僕にとって特別な国なのです。

 

案の定、開会式は感動してしまいました。

最初っからベースにサンバやボサノバのリズムが刻まれていて、知らないうちに体が動いてしまいます。登場するアーチストは、ブラジル音楽を作ってきたジルベルト・ジルやカエターノ・ベローゾ等錚々たるメンバーです。

 

最後に、リオのカーニバルに出場している12のサンバチームが演奏して入ってきた時は圧巻でしたね!サンバのリズムで、会場全体が踊っているような感じがして、思わず涙が出てしまいました。

 

演出も素晴らしかったですね!

カラフルな色彩、センスの良いデジタルアーツ、人力での繊細かつ躍動的な表現、そして素晴らしい音楽etc..

あの、各国の選手団を先導する自転車のスタッフが可愛かったですね。

ファベーラという貧民街の子供達の歌声も素晴らしかった。きっと、一生懸命練習したんでしょうね。

 

ブラジルは、現大統領が弾劾裁判を受けていたり各地でデモが起きていたりオリンピックの準備が遅れていたりと、様々な不安要素が囁かれていましたが、あの、開会式を見て、ブラジル人の底力と明るさに胸を打たれました。

 

お金をかけなくても、あんなに人間味の溢れた暖かい開会式ができるんだと本当に感動しました。

どの要素を取っても、いあっまでのオリンピックの開会式とは一味も二味も違った素晴らしい開会式だと感じました。

 

実は、開会式が開催されたあのマラカナンサッカースタジアムは、13年前リオのカーニバルに行ったとき訪れたのです。ところが、入場券を買って入ったのは良かったのですが、最初のサッカーの歴史を紹介した展示室から観客席に行くのにどうやっていったらよいかわからない。向こうはすべてポルトガル語で、英語は通じないので、いくらスタッフに聞いてもわからない。結局、観客席やフィールドには入れないで帰ってきた苦い思い出があります。後から、ほんの小さな入り口から入れたようなのですが...。

 

日本では、後3週間で浅草サンバカーニバルが開催されます。

僕は、今年は練習できなかったので参加しませんが、来年は絶対参加したいと思っています。

 

 

 

 

ブラジルは

僕たちが忘れてしまった豊かさを知っている            2016/8/7

 

 

 

 

 

 

 

内村航平選手

 

体操ニッポン代表の内村選手の演技は、観ていて鳥肌が立ちました。

 

とにかく美しい。

 

ものすごくハイレベルな技をやってるんだけど姿勢が崩れない。

高度な技術はあるけどそれをやりこなすだけで精一杯な他の選手とは一線を画す素晴らしい演技でした。

観ている者に美しさを感じさせるには、高度な技術を完全に自分のものにしながらそこに精神性を取り入れなければなりません。つまり、技術を上回るほどのゆとりを生む強い精神力がなければ成し得ないことです。

個人総合では2位の選手と僅差の金メダルでしたが、そのわずかな点数の背景には彼にしか成し得ない「神業」があり、それが、他の選手からもレジェンド(伝説)と言われる所以なのでしょう。

 

 

一方で、今日のワイドショーでは試合後の「もう次はない」といった彼の言葉尻を捉えて引退するんじゃないか?というような報道をしていました。

 

随分、勝手な憶測で報道しているなあと感じました。

観る側、応援する側からは、もっと彼に活躍していてもらいたいしその雄姿を見ていたいから次の東京オリンピックも...とつい考えます。

 

でも、あのインタビュ−に答えていた時の彼は、「もう出し切った」と言っていたように、自分の持てる全精力を出しきり、「無」の状態だったんではないか?と思います。最後の演技の鉄棒の最中にぎっくり腰のような症状が出ながらも、着地をピタッと決めた。着地のかがんだ状態から体を真っ直ぐに伸ばすときに顔をしかめていたのは、おそらく相当腰が痛かったからではないでしょうか?でも、そのハンディを抱えながらもミスをしないでフィニッシュした精神力はまさに「神業」だと思うし、そこまで力を出し切ると人は「無」の境地になって先のことは考えなくなるのではないか?と思うのです。つまり、次のオリンピックに出るかどうかなどといった先のことは、その時の彼の頭の中には全く無かったのだろうと思うのです。それが、「もう次はない」といった言葉として表現されたのではないでしょうか?

 

でも、マスコミや周囲に人は彼への次への期待があるから、彼の真意を誤解してしまうのではないか?と感じたのです。

 

自分たちの立場に立って理解するのではなく、相手(彼)の立場に立って理解しようとすることが大切なのではないか?と感じました。

 

 

それにしても、彼の演技は、超ハイレベルな技術に美しさを兼ね備えていて、もうこの境地は「アート(芸術)」なのではないか?と思いました。

そして、彼だけではなく、今の体操ニッポン代表選手は、皆がこの点に拘って演技していることがニッポンの誇りだと思いました。

 

 

 

 

 

完璧な技術はアートになる                2016/8/12

 

 

 

 

 

 

 

 

正義

 

先日、尖閣諸島沖の公海上で中国の漁船がギリシャ船籍の貨物船と衝突して沈没し、漁船の乗組員を日本の海上保安庁の巡視船が救助したとニュースがありました。その旨を中国側に連絡したら、中国側から感謝の言葉が述べられたようです。

 

このニュースを読んで、心が少し暖かくなりました。

 

今、領土問題で日本と中国は険悪なムードになっています。でも、その中にあっても、「人が人を助ける」ということは政治的な問題を超越してしまう、人間の本能や倫理の領域なのかもしれません。

 

如何なる問題が他国と発生しようと、日本人としては、常に「人と人」という基本的なことを忘れずに、情愛を伴った毅然とした姿勢を持ち続けていきたいものです。

その姿勢は、やがては、人種や宗教、民族の違いを超え、お互いを許し合う関係を築いていくのではないでしょうか?

 

日本がこれからも世界の中で認められ存在していくには、「争わないこと」、「奉仕をすること」、「おもてなしをすること」といった古来からの日本人が持っている良さを忘れずに、国家としてその姿勢を前面的に打ち出して確実に実行していくことが大切だと思います。

 

 

 

 

日本人は温和で友好的な民族です             2016/8/12

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間

 

「人間は嫌いです」

 

ある人がこんな言葉をつぶやいた。

 

それを聞いた時、僕はその人の言葉を否定できなかった。

その人がどれくらい傷ついてきたか?どのくらい悲しい思いや失望をしてきたか?

 

人間が嫌い...

 

じゃあ、俺はどうだ?

人間は好きか?

 

そう問われた時、心から好きと言えるだろうか?

 

 

人間が好き...

そう思える時もあった。

先日閉幕したリオで行われたオリンピック。

 

そこでの、選手たちのひたむきな姿は僕の心を打った。

メダルを取れなくても、それまでの努力や果敢に挑戦していく姿からは勇気をもらった。

 

子供の頃から短距離には自信があった。100mや400mリレーではよく代表になった。

だから、オリンピックでの男子短距離の活躍には興奮した。たとえ、それぞれ個々の記録は世界に負けていても、世界一のバトンパス技術で銅メダルをとったあの男子400mリレー決勝では身震いするほど興奮した。チームワークという日本人の良さを感じられ、日本人で良かったと思った瞬間だった。

また、閉会式での、次回の東京オリンピックを紹介するセレモニーを観て日本の技術の高さを再認識し、日本もまだまだ捨てたもんじゃないなと感じた。

オリンピックは、人間が好きと思わせてくれる身近な経験だった。

 

 

でも...

 

人間は、必ずしも好きとは言えない面もたくさんある。

最近は、そう思わざるを得ないような出来事が多すぎる。

そう思わないか?

 

 

人が人を殺し合ってる。ただ、宗教や肌の色が違うというだけで。

人が人を殺す。相手が障害があるからというあり得ないバカな理由で。

自分に反抗しなさそうな人を狙っていじめる器のちっぽけな人達。

人の噂をしたり悪口を言ったりしながら悦に入ってるかわいそうな人達。

 

どこかの公務員が、盛り土をするという計画を勝手に反故にしてやらなくしてしまう。そして責任をなすりつけ合う。その工事契約書にはちゃんと当時の都知事の印鑑が押されているのに、私は知らなかったなどと白々しく嘘をつく元都知事。

 憲法問題に言及しようとするのを圧力をかけて抑えようとする政治家たち。

 東北や熊本の震災の復興がまだ充分に進んでいないのに、もう忘れてしまったかのような政府。

 

この国を動かしている人たちを見ていると、とても人間が好きになれない。

平気で人を殺す人達の存在を知ると、とても人間が好きだとは言えない。

 

 

そして...

 

人間がこの世に現れてまだ間もないのに、人間は他の生物を支配し殺し環境を破壊してきた。そのために地球温暖化がものすごいスピードで地球全体を襲っている。巨大化した台風、激しさを増した豪雨、見たこともない竜巻...

これらの自然災害は、人間の負の営みの結果だ。

 

人間は、地球という自然界のバランスを壊す存在だ。

他の生物たちからすると、人間はとんでもなく迷惑な生き物に違いない。

 

 

それでも、あなたは人間が好きですか?

この問いに、どれだけの人が心からYesと言えるだろうか?

 

 

 

僕は、「人間が嫌いです」と言ったその人が好きだ。

その正直な心が。

その、どうしようもない生物である人間を通して感じている、哀しみに満ちた心が。

 

僕自身は、人間は、好きな部分と嫌いな部分の両方があると思っている。

まだ、どこかに、人間の良い部分に期待しているところがある。その可能性にも。

だから、精神科医という人の心を扱う仕事をしている。

 

精神科医という仕事は、人間の良い心も悪い心も両方を認めていないとできない仕事だ。

良い心から生まれる希望や可能性、悪い心から生まれる悲哀や不安、恐怖etc…

そういった人間の奥深い部分に 目を凝らし関心を持って関わっていく有り様…

それが精神科医としての自分の生き方だ。

 

 

 

 

 

追伸

 

井上陽水の「最後のニュース」がずっと頭の中で鳴ってます

 

 

 

 

     

夏は短く儚い                         2016/9/21

 

 

 

 

 

 

 

だいじょうぶかな  この くに

 

とうほく

あんなに こわい じしんが おこった のに

びるのたかさ ほどの つなみが おそった のに

 

くまもと

ここでも たくさんのひとが なくなった のに

いまも おおくのひとが いえをうしない ひなんせいかつを つづけている のに

 

ほっかいどう

たいふうによる すいがいで たくさんの ひとやいえが なくなった

 

げんぱつ

いまも ほうしゃのうで たいへんなおもい を している ひとが たくさん いる

 

へいきで ひとを ころす ひとが いる

 

きのう でんしゃに とびこんだ ひとが いた

きょう びるから とびおりる ひとが いる

あした くびを つる ひとが きっと いる

 

 

みんな こんなに こまってる のに 

 

くるしんでる のに 

 

きぼうを もてない のに

 

 

どうして?

 

どうして せいじか やくにんの みなさん は うごかな い?

 

どうして 「いちおくそうかつやくしゃかい」 とか 「けいざいさいゆうせん」 とかに なる の?

 

どうして もっと みじかで こまってる ひとたちに めを むけない

 の?

 

どうして?

どうして?

 

なにかが おかしい

なにかが おかしく ない?

 

もちろん けいざいてきに くるしい ひとは いる

それで いきたい がっこうに いけない こどもたちも いる

それは つらい こと ほんとうに くやしい こと

もちろん そういうこたちの ゆめが かなうように してあげなければ

ならない

 

でもね 

 

ほかの ある くに のように

そのひに たべるものが なくて こどもたちが みをうる ほど では ない

あめつゆ しのげる たてものが ない わけ では ない

そうはいっても にっぽんは せかいの なかでは まだまだ めぐまれてる よ

                  こんなこと いうと しかられる?

 

 

 

にっぽん という くに

 

なにか あたたかさ が かんじられ ない

こんなに ものに あふれて いても 

いつも あんしんでき ない

 

なぜ?

 

もっと ちかいところに こまってる ひとが いる

もっと すぐそばに さびしさや ふあんと たたかってる ひとが いる

 

そういう ひとたちに あたたかい めを むけて あげられる ような

くにに なれば いいな

 

もっと やさしい くにに なれば いいな

やさしくて あたたかい くにに ひとに なれれば いいな

 

 

ぼくも そんな ひとに なれれば いいな

そんな ひとに なりたい なりたい

 

 

みんな も いっしょに 

 

なろうよ

 

 

 

 

 

 

 

 

あきは さびしい かなしい よ               2016/9/22

 

 

 

 

 

 

 

 

あめ と あき と ふゆ

 

 

 

まいにち あめ

 

あめ は いや だ よ

 

あき は さびしい よ

 

ふゆ は くらい よ さむい よ

 

いや だ 

 

いや だ よ

 

 

 

 

 

  

 

ぐれい すかい                          2016/9/22

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京


久しぶりに訪れた。

タクシーの車窓から新宿歌舞伎町の喧騒が伝わってくる。
我こそはとアピールする無数のネオンサイン。
所狭しと並ぶ都会の灯りを観ていると、ある種の感動さえ覚える。
乱雑で混沌とした無秩序な光の展覧会。
さながら、陽光を求めて蔓延る花々のようだ。

路上に目を移すと、人また人…
何を語り何を考えているかわからないが、カップル、グループ、独り…
一瞬、自分が別の惑星を訪れているかのような錯覚に陥った。

上方を見上げると、上半分闇を背負った明るい天体と思しきものが見える。
あれが、おそらく月というものだろう。
ならば、ここは地球か?いや、それとも別の惑星か?

しばらく大きな街道を走り、そのうちに、タクシーは、やけに細い路地に入り込んだ。
やっと一台が通れるくらい狭い。
左右には住宅がギッシリと立ち並ぶ。
さっきの喧騒が嘘のように静かな世界。
隣に手が届くくらい接近した軒先に、一台の自転車と植木鉢。
先程の「別の惑星」から、一気に懐かしい僕が知る天体に戻った感じだ。

東京という街は、実に不思議な街だ。
現実と非現実が、現実の中で入り乱れている。
混沌としているが、「混沌なりの秩序」を保っている。
人は、その現実と非現実を行ったり来たりする。




この数ヶ月、僕の心もこの街のように混沌としている。
まとまりが有るようで、無い。
無いようで、有る。
ふわふわと方向が定まらない。
無数の人をかき分けて、あてもなく彷徨ってるかのような感覚。
心許なく、不安。

でも、僕は敢えて行き先を決めていない。
どこに行きたいとも考えない。
そのままにしてる。


この人混みを抜けるとどこに行き着くのか?
その向こうは深い森か?それとも絶壁か?それとも…
そんな不安はあるが、そんなの考えたって分かりっこない。
ならば考えない。

何も考えず、あてもなく彷徨ってみる。
これもまた、オツなものだ。







お月さん、お前には今何が見える?                                   2016/11/19









都会の綿毛


ちょっとした発見…

曇った窓
おそらく、外は冷えてるのだろう

細かい水滴がついた窓越しに見える街の灯り
そのひとつひとつの灯りを中心に、ぼうっとした灯りが丸く取り囲んで見える
そう
ちょうどタンポポの綿毛のよう

オレンジや真紅やブルーの大小さまざまな綿毛…
ひとつ見つけて
気づいたら、色とりどりの無数の綿毛が目の前に拡がってた

こんな可愛らしい都会の夜景は生まれて初めて

ちょっと、感動







お月さん  おやすみ                                          2016/11/20










世の中は・・・

 

3連休なんですね。

今日、コンビニに買い物に行ったら、他県ナンバーの車がたくさん停まってました。

「いいなあ・・・」

正直、そう思いました。

 

仕事柄、丸一日何もない休日は日曜・祝日しかないので、連休というのは一年の間でも滅多にありません。

連休があれば、丸一日は寝ていて翌日出かけたり、一泊で遠出したりといったこともできる。だから、土日が休みになる人たちが羨ましく思うこともあります。

 

 

ここのところ、心が混沌とした状態にあります。

今年もあと少しで終わりますが、今年の後半は実に様々なことが起こり、正直、自分の核になる部分まであやふやになってしまって、形のないスープの中に自分の魂が漂っているかのような...今まで、あまり経験したことがないような心の状態にあります。

 

でも、僕は、あえてこの状態から抜け出そうとは思わずに今を生きています。なぜなら、こういう弱くなってしまっている自分の心も大事だからです。

心も体も調子に波があります。それは自然な姿です。

ですから、それをあえて違う方向に無理やり持って行こうとしないで、そのままにしておこうと思うのです。だいたい、こういう時に無理に元気になろうとしても大抵うまくいきません。

 

元気がないなら、元気がないなりに生きればいい。

そう思うのです。

それが、「今の自分」を大事にしてあげるということだと思います。

 

そして、このあてもなく漂っている自分の心がいつか行き着く場所...

それが、新しい自分の世界...次のステージだと思うのです。

 

だから、今の自分は決して満たされてはいないし、自信もないし、苦しいし、辛いけど、これはこれで良いと思っています。徹底的に味わってやろうと思います。

 

マイナスな時期の先には必ずプラスがある。

今は、そのための充電期なのです。

 

 

 

信じられない...今年があと1週間だなんて              2016/12/23

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなこと書いて大丈夫ですか?

 

僕のブログを楽しみに!?読んでくださっている方がいらっしゃるようです。そんな方から、時々こんな質問をされます。

 

確かに、僕の文章を誰が読んでいるかわからない。もちろん、その中には患者さんもいらっしゃるでしょう。だから、今までも、ここまで書いていいものか...?と自問自答したことがあります。少なくとも、ブログを始めた頃は良いことや差し障りのないことしか書きませんでした。

でも、それでは、僕の良い面しか表現していない。ある意味、それは偽善ではないか?と思い始めたのです。

 

人は、様々な色を持って生きている。明るい色もあれば暗い色もある。

ならば、時には暗い色も表現して良いのではないか?

絵画でもそうでしょう。

有名なムンンクの「叫び」。

背景の渦巻くような灰色や黒があるからこそ、夕焼けの赤が際立ち、こちらを見て叫びそうになっている人物の言いようのない不安が観る者に迫ってくる。

暗い色は、とても大事なのです。

 

確かに、最近の僕の文章は暗い色が多いですね。でも、毎日一日中そんな色で生きてるわけではない。時々明るい色を感じながら生きてる瞬間もあるのです。むしろ、暗い色が多ければ多いほど、明るい色を感じる時は嬉しいし愛おしい。

 

ですから、心配しないでください。

もし、この文章を読んでくださってる方の中に患者さんがいらっしゃっても、不安にならないでください。

僕は大丈夫ですから。治療には、何ら支障はありませんから(笑)。

どんな心の色のときでも、診察室に一歩入れば一人の医師としてのスイッチが入りますから。そこは、自分でも不思議なくらい切り替わるのです。

 

そういう意味では、ブログを書いてる時の僕は医師の僕ではないのです。

 

それと、素の僕は、意外と暗い色が好きなのです。

子供の頃から、そういう状況になることがとても多かったので慣れているのです。

 

ですから、自分で言うのも何ですが、逆境には強いと思っています。

崖っぷちに立たされると、かえって動じなくなります。

 

危機的な状況に立たされる時、いつもあるイメージが浮かびます。

昔、大河ドラマか何かでやっていた弁慶の姿です。

弁慶は、源義経のボディーガードでしたが、義経が兄の頼朝に討伐され、いよいよ追い詰められて自害しようとする時に、弁慶がその祠の前に立って時間を稼ごうとします。弁慶は、頼朝の軍勢の無数の矢を身体中に浴びながら、微動だにせず立ったまま息絶えたと言われています。

 

子供の頃にその壮絶なシーンを見てから、自分も、後がない危機的な状況になったら、逃げも隠れもせず、弁慶のような堂々とした最後を迎えたいと思いました。

だから、今でも、追い詰められると、あの弁慶のイメージが浮かんでかえって落ち着くのです。

そこは、自分の良いところだと思っています。

 

 

 

 

内省 内省....                                                              2016/12/23

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

あけまして、おめでとうございます

 

いよいよ、新しい年が始まりました。

 

何か、昨年一年はすごく早く過ぎたような気がします。

特に、最後の数ヶ月は、僕にとって様々な問題が発生してつらい時期した。

 

今、僕がこうやって何とかいられるのも、多くの人たちの助けや励ましがあったからです。

本当に感謝しています。

 

今年はどんな年になるんだろう...?

 

今年は、今まで以上に、少しでも多くの患者さんに喜んでいただけるようなクリニックにしていきたいと思っています。

 

今年も、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

つかの間の休日                      2017/1/1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イヤ〜な感じ

 

今、日本国内だけでなく世界中にこんな雰囲気が漂ってる。

 

日本国内では、自公民の独裁体制。与党が衆参両院とも過半数を占めているため、ほとんど全ての法案が与党の思うままに可決してしまう。野党は国会決議になると欠席したり退場したりして対抗してるけど焼け石に水。

本来は、反対なら欠席や退場はすべきではない。負けると分かっていても、きちんと決議には参加して最後まで反対の意思表明をすべきだ。国民の税金で給料をもらって国民の意思を代弁すべき立場の国会議員なのだから。

あんなに国民の過半数が反対していた安保法案も可決され、年金改革法案も通ってしまった。いずれも、国民にとって将来への不安を増大させる法案ばかり。

今の日本の政治は民主主義ではない。

 

世界を見ると、未だに世界中で戦争が止まらない。それに加え中国の南シナ海への進出、北朝鮮の脅威、イギリスのEU離脱、政情が不安定なイタリア..、移民の問題を契機に欧州各国で発生しているナショナリズム...。今までそれなりに世界情勢に目を向けリーダーシップを発揮してきたアメリカでさえ、次期大統領に決まったトランプ氏はアメリカ第一主義を掲げている。

これもナショナリズムだ。

 

世界中に「自分たちの文化、宗教、民族を守ろう」という主張が台頭してきている。いわゆる右翼化だ。

もちろん、自国の歴史や文化、宗教等を大切の仕様という考え方は間違ってはいない。でも、欧州諸国の移民排除に象徴されるように、「自国を大事にする=他国とは相容れない」となってくるとこれは怖い。

第二次世界大戦を含め、人類が犯してきた「戦争」という過ち。この前兆は、必ずこのようなナショナリズムや他の宗教排除だった。

 

僕は、この背景に資本主義のほころびを感じる。利益を追求し金を持ったものが強くなる社会。そこには必ず貧富の差が生まれる。今、宗教的対立によって争っている国々も、よく見るとその背景に貧富の差の問題が隠れていることが多い。

 

今、「先進諸国」などと言われている国を見ても、皆お金持ちの国だ。

お金を持ち物質的に豊かになることを希求する資本主義には、人の心を大切にする文化がない。そういう社会には優しさや思いやりといった暖かさがない。常に、相手と自分を比較し、どちらがお金を持っているか、良い車に乗っているか、家を持っているか、名門校に入ってるか、良い企業に就職してるか、給料はいくらか...そんなことが人の価値を決める基準になり、差別感が生まれる。そんなことが人生の価値基準になってしまうから、子供達も、実現が難しいかもしれない夢を持つことよりも経済的に安定し「無難な」人生が送れることを目標とする。親もそれを望むからだ。今やたら流行ってる中高一貫校への入学熱(一部には幼稚園レベルから)、公務員人気等はそれを象徴する例だろう。

 

 

今、地球上では、温暖化により世界規模で人類を脅かす変化が起きている。今までになかった規模の自然災害が毎年のように私たちの生活を脅かし、実際多くの犠牲者を出している。

 

今こそ、世界中の国々が協調して知恵を出し合いこの困難な課題と向き合わなければならないのに、今の世界情勢はむしろその逆の方向に行っているように思えてならない。

 

人間というのは利口なのか馬鹿なのか.....?

 

僕は、どう考えても後者のような気がしてならない。

 

 

 

 

 

雪が降り出した                         2017/1/3

 

 

 

 

 

 

 

 

「在る」

 

昨晩から降り続いた雪がやみ、今日は朝から明るい日差しが降り注いでいる。

どこもかしこも、真っ白だ。

 

八ヶ岳の頂を観ている。

 

雪をかぶったその頂は、凛としてそこに在る。

よく観ると、頂から南西方向へ白い雲のような筋がたなびいている。

きっと、北東の方向から強い風が吹いているのだろう。

しばらくすると、灰色がかった雲がその頂を覆い、やはり南西方向に進んで行く。

しばらくして現れたその頂は、やはり凛としてそこに在る。

 

目の前に犬が横になって寝ている。体を右下にして、前足と後ろ足を合わせるように背中を丸くしてスヤスヤと寝ている。体の中央がゆっくりと上下している。その緩やかなリズムからすると、安心して眠っているのだろう。

 

山の頂と犬の間に、雪が広がる。雲がかかると一面灰色になるが、日が差すと、樹木の枝の影が複雑なシルエットを創り出す。

 

静かだ。

 

その一つ一つのものが、「何も考えていない」。

主張もしていない。

それらのものには、何も「意味」がない。

 

それぞれが、ただそこに在るだけである。

 

でも、「ただそこに在るだけ」のそれらが、何と力強く、かつ穏やかで静かなことか!

 

時間も周囲の事象も移ろっているはずなのに、それらのものはどうしてこんなに静かで穏やかなんだろう?

 

 

 

犬が、いつの間にか、今度は体を左下に変えて、やはり、くの字になって寝ている。

体の中央は、先ほどと変わらずゆっくりと上下している。

 

木々は、相変わらず真っ白な雪の上に影を落としているが、そのシルエットは先ほどよりわずかに長くなっている。

 

山の頂、寝ている犬、雪、木々の影。

 

それらが「在る」中に、僕も在る。

僕にも意味はない。

 

「ただ在る」のである。

 

 

 

 

しんどかった雪かきの午後                  2017/1/9

 

 

 

 

 

 

 

ダリ展

先日、ダリ展に行ってきた。

サルバドール・ダリ(1904〜1989)。スペインの画家で、シュルレアリズムの代表的な画家。グニャっと曲がった時計はあまりにも有名だが、私生活も数々の奇行で有名。

過去最大のダリの展覧会なんて新聞に出ていたので、シンポジウムで上京したついでに行ってみた。場所は、六本木の国立新美術館。

 

期待はずれだった。

確かに、作品数は多かった。数年前にやった同じダリの展覧会に比べると、出品数では勝っていると思う。

しかし、作品の質に関してはがっかりで、前回の展覧会の方が数段レベルが高い作品が来ていた。

 

今回の展覧会は、作品が彼の年代順に整然と並べられていた。17歳のまだ画家になる前の作品から晩年の作品まで。だから、彼がどのようなことを考え、影響を受け、自分の作風を確立していったかということはよくわかる内容になっていた。特に、セザンヌに象徴される印象派やピカソを代表とするキュビズムなどに強く影響を受け、そこから彼独自の世界を築いていった流れは大変わかりやすい展覧会だった。

そういう意味では、ダリを研究している人にとっては有意義な展覧会だったのではないか?

 

それにしても、彼はやはり天才だと思う。画風を確立するまでに様々な画家の模写、もしくはその流派の画風で絵を描いているのだが、どれも完全に自分のものにしている。そして、それをベースに自分独自の世界観を創造している。

並々ならぬ技術が無ければこんなことはできない。彼のデッサン力は半端じゃない。これ、写真??と見まごうほどの精緻な描写力。その確たる技術があってこそなし得る仕事だ。

 

僕はもともとシュルレアリズムは大好きで、その中でも「デ・キリコ」を崇拝しているが、ダリは....その技術力に関しては脱帽である。

 

 

 

変な世界は大好きだ                       2017/1/9

 

 

 

 

 

 

明日から

 

明日から、また始まる...

 

そう考えるからいけないんだ。

そう考えると、頭の中にはすぐに、今週の患者さんの数はとんでもなく多いとか、予約通りにいらっしゃってる患者さんを待たせたらどうしよう..とか本当にどうでもいい余分な不安が生まれてくる。

なぜ「どうでもいい」不安なのか?

だって、考えたってどうにもならないからだ。

良い答えなんて絶対に出ないからだ。

むしろ、考えれば考えるほど「不安」を膨らませることになる。

そんなの損だし、何も良いことはないだろう。

 

まだ休日なのに、まだ始まってもいないのに...

このように、どうしようもないことを考えるのが人間のいけないところだ。

 

患者さんの数が多かろうが、万が一予約通りに患者さんをお呼びできなかろうが...とにかく、目の前の患者さんに集中して、必死にその心の声に耳を傾け、全身で受けとめていけばいいんだ。

もともと、俺は不器用な人間だ。器用に振舞おうと思わなくたっていいんだ。そう思ったってできないんだから。

それなら全力でぶつかるしかない。

不器用な人間は泥臭く生きればいいんだ。

かっこよく生きる必要はない!

 

最近、野武士のように生きたいと思う。

武士は、常に死を覚悟して生きる。

『一日一生』、いや、『一瞬一生』。

 

俺もいつ死ぬかわからない。もう、そういう年齢に来ている。

明日、突然お迎えが来るかもしれない。

だから、俺には時間がない。

明日に回せばいいことは一つもないんだ。

今思い立ったら今やること。

今思い立ったら今伝えること、表現すること。

 

 

 

小さい頃から医師になることを夢見ていた。

今その医師になることができ、毎日患者さんと向き合わせていただいている。

それだけでも、どれくらい幸せなことか!

だから、仕事で生じる苦労なんて大したことじゃない。

小さい頃から夢にまで見た仕事に就かせていただいているのだから。

 

だから、必死にやる。全力で。

自分の持てる力を全て使い切る。

体ごと、心ごと患者さんにぶつかっていく。

自分の気持ちに正直に。嘘をついたりその場しのぎのことを言ったりごまかしたりせずに。

 

野武士のような、不器用で泥臭い精神科医。

それが俺の医師としての在り方。

 

少しでも近い位置で患者さんに寄り添える精神科医を全うすること。

それが、俺に与えられた使命。

 

明日から、またその一日一日が始まる。

 

おもしろそうだ。

 

 

 

 

『一瞬一生』                            2017/1/9

 

 

 

 

 

 

 

アメリカよ、いったいどうなってしまったんだ?

 

トランプ大統領になってからアメリカは混乱してます。

 

 あの、自由の国、民主主義の国、移民も受け入れ多様な人種や民族を抱合してきた寛容な国......アメリカ。

その国が、今、横暴で下品な新大統領によって変えられようとしています。

 

 難民や移民を受け入れないとして、早速トランプ氏は名指しで7つの国の名を挙げ、それらの国からの入国を拒否する大統領令を発行しました。

 僕は、これは人権侵害だと思います。

 

 今回の大統領令の真意はテロリストを国内に入れないということのようですが、そもそも、彼が選んだ7カ国にテロリストが潜んでいるという証拠はどれほどあるのでしょうか?全く信頼できるエビデンスがないのに思いつきで言っているように感じてしまいます。

 それに、テロリスト達だって、今までの経験から国外から入国することは難しいことくらい承知のはずです。ですから、わざわざ危険を冒してまで国外から入国するなんておバカなことはしないでしょう。今はインターネットの時代ですから、ネットを駆使してアメリカ国内にいる同志を募ってジハード(聖戦)を起こすか、7カ国以外の全く無警戒の国の者がテロを起こすでしょう。

 つまり、いくら国外からの入国を阻止してもテロを防ぐことは不可能なのです。むしろ、入国禁止国に挙げられた国の人々の怒りや恨みを買って、新たなテロリストを生むといった皮肉な結果になることもあり得ます。世界中のイスラム教徒の怒りを買い、宗教戦争に発展する恐れもあるでしょう。

 むしろ、トランプ氏の入国禁止令は、IS等のイスラム過激派にとっては格好の好材料となるでしょう。

 トランプ氏がやってることは世界に混乱をもたらすだけで、少なくとも調和を生み出すものではありません。彼の政策は百害あって一利なしです。

 

 

 

 そもそもアメリカは、メイフラワー号に代表されるようにイギリスから渡ってきた「移民」が築き上げた国です。もともと北米大陸に住んでいた先住民であるインディアン(ネイティブ・アメリカン)を虐殺して残虐なやり方で追い出し、勝手に自分たちの土地を広げて開拓してできた国....それが今のアメリカです。

 トランプ氏は、自分たちの祖先がそもそも「移民」だったということを忘れているのでしょうか?

 

 このように、もともとアメリカ自体が「移民」が作った国であるわけですから、アメリカ人は移民を受け入れないなんて偉そうなことは言えないと思うのです。

 

 

 トランプ氏を見ていると、とても一国の大統領とは思えません。下品で横暴で横柄。何か、質の悪いパロディーを見ているようです。

 

 「お前はクビだ」という彼の言葉がよく取り上げられますが、彼の今の政治姿勢を見ると、一国の長として国政を司るというよりもビジネスをやっているかのように見えます。「アメリカ会社」の社長・・・そんな感じです。

 移民を受け入れないとした大統領令に反発したサリー・イエーツ司法長官代行を即刻罷免したり、自国の経済に不利になる貿易相手国には高い関税をかけると脅したり、メキシコとの国境に壁を作ってその代金をメキシコに支払わせると言ったり....ちょっと、一国の大統領の口から出たとは到底思えないような非常識で横暴な言葉が連日のようにニュースのトップ項目を飾っています。

 本当に異常な事態です。

 

 このトランプ氏が掲げる「アメリカ第一主義」は、まさにナショナリズムです。つまり、まず、アメリカが一番(経済的に)儲かり軍事的にも強くなることを何よりも優先させるということです。そこには、他国への配慮や、世界の調和、協調という考え方はありません。

 

 今までのアメリカは、自国の国益だけを考えるのではなく、常に世界の調和・安定を考えてきたと思います。だから、多様な人種や民族を受け入れ、その人達が良い仕事をし、それによって現在のアメリカの繁栄があるのです。従来のアメリカは、そのような他国や異人種、異民族に対して寛容であったわけで、それがゆえに「偉大な国」だったのではないかと思います。

 その、自国のことだけではなく他国や人類全体にまで及ぶ広い視野を持った「精神性」=「心」(思いやりや赦しといった寛容さ)こそが、アメリカの偉大さではなかったでしょうか?第二次世界大戦では敵対国であったアメリカが日本の発展に多大に寄与したこともその一端ではないでしょうか(僕は、子供の頃にテレビで見た、アメリカの進駐軍が敗戦後の貧しい日本の子供達にチョコレートを配っているシーンを今でも思い出します)?

 

 その器の大きな精神性......それがアメリカをアメリカたらしめ、他国に尊敬と一方ではある種の脅威を与えてきた。だからこそ、アメリカは、世界最高の繁栄を手にした国に成り得たのではないか?と思うのです。

 アメリカの「偉大さ」=「強さ」は、その、あらゆるものを受け入れ生かしていく「柔軟性」=「器の大きさ」にあったのではないかと思うのです。

 そして、アメリカ人もそのことを誇りにしてきたのではないでしょうか?

 

 ところが、トランプ氏が掲げるアメリカ像は、従来のものとは正反対の視野の狭い自己中心的なものです。

 彼は、「アメリカを今まで以上に『偉大な国』にする」と選挙戦の頃から言っていましたが、トランプ氏が掲げるような了見の狭い自己中の考え方から生まれた国のどこが「偉大な国」なのでしょうか?

 

 怖いのは、トランプ氏の歯にものを着せぬ言い方があまりにも非常識なので、下手をするとそれが一見かっこよく見えてしまうような「錯覚」に陥ることです。よく、人がやらないような悪いことをやっている人がかっこよく見えるような感覚です。本当はかっこ悪いことなのですが。

 私たちは、そんな錯覚に陥らないようにしないといけません。彼を支持している人たちは、今までこれほどまでにストレートに発言をする大統領はいなかったために、その今までになかった「新鮮さ」「あり得なさ」に惹かれて「何かやってくれるのではないか?」と錯覚しているのではないでしょうか!?。

 

 ここで大事なのは、彼の言動や態度を冷静に観察する眼です。

 人の器や器量は、その人の言動(言葉の使い方等)や行動に表れるものです。今までのトランプ氏の様子を見る限りでは、人として尊敬できる方のように僕には見えません。

 

 

これから、世界はどうなっていくのでしょう...

ますます混沌としてきたような気がします。

 

 この状況の中で、周囲の雰囲気に流されず、いかに冷静に物事を見、心を整え、自分の頭で考えて行動していくか....

 

 そういう心構えが肝要かと思います。

 

 

 

 

これは何かの警鐘ではないか?                    2017/2/5

 

 

 

 

 

 

 

いちにち

 

「また、いちにちが始まる。いやだあ、起きたくない!」

 

何ともやるせない気分で、やっとの思いで起きる

 

いちにちの始まり

 

 

仕事場に行けば、患者さんを待たせているという自責感と焦り

 

減らない書類との格闘

 

 

でも、患者さんに会えば、その「ものがたり」に入り込んでいる

 

 

何とかして力になりたい

 

少しでも楽になってほしい

 

切なさ、悲哀、落ち込み、イライラ、怒り、感動、励まし、勇気、愛おしさ、希望

 

患者さんと僕の感情が入り混じる

 

それを感じる瞬間

 

それが生きがい

 

 

相手が満たされる

 

だから自分が満たされる

 

それがいちにちの喜び

 

幸せ

 

 

帰宅してシャワーを浴び床につく

 

これから数時間眠れる

 

いちにちの一番ホッとできる瞬間

 

それは、次のいちにちの始まり

 

 

 

 

雪は嫌だ                         2017/2/9

 

 

 

 

 

 

 

 

叫び

 

認めてほしい...

 

 

お母さんに認めてほしい

 

お父さんに認めてほしい

 

お兄ちゃんに認めてほしい

 

お姉ちゃんに認めてほしい

 

弟に認めてほしい

 

妹に認めてほしい

 

いとこに認めてほしい

 

おじいちゃんに認めてほしい

 

おばあちゃんに認めてほしい

 

おじさんに認めてほしい

 

おばさんに認めてほしい

 

友達に認めてほしい

 

先生に認めてほしい

 

恋人に認めてほしい

 

旦那に認めてほしい

 

カミさんに認めてほしい

 

子供に認めてほしい

 

仕事の上司に認めてほしい

 

仕事の同僚に認めてほしい

 

仕事の部下に認めてほしい

 

ママ友に認めてほしい

 

隣近所の人に認めてほしい

 

地域の人に認めてほしい

 

社会の人に認めてほしい

 

国に認めてほしい

 

世界中の人に認めてほしい

 

性格、価値観、考え方、得手不得手、肌の色の違い、民族、宗教の違いを越えて

 

認めてほしい

 

 

君は、いていいんだよ

 

いてくれたらうれしい

 

いてくれるだけでいいんだ

 

いてくれなければ困るんだ   と

 

認めてほしい

 

 

この家庭の人たちが

 

この学校の生徒たちが

 

この会社の人たちが

 

この地域の人たちが

 

この日本という国の人たちが

 

世界中の人たちが

 

そう思っている

 

そう願っている

 

そう望んでいる

 

心から

 

 

そうじゃないの?

 

ねえ

 

違う?

 

 

 

 

 

春が待ち遠しい                     2017/2/14

 

 

 

 

 

 

 

うれしい話

 

先日、ある方からこんな話を聞きました。

 

その方は農業を生業とされている方ですが、今は農閑期なので、タイとカンボジアに一ヶ月間一人で旅をしてきたそうです。バックパックを背負って、一泊数百円の宿に泊まる。当然様々な国から来た観光客と部屋をシェアするのです。

「どこから来たの?」

皆、挨拶代わりに聞くわけですが、「日本からです」と答えると、皆の目が変わり、「cool!」「nice!」「beautiful!」「kind!」「clean!」と言ってくれるのだそうです。また、ある街を歩いていたら、日本人とわかるや否や「一緒に写真を撮ってください」「一度でいいから日本に行ってみたい」と声をかけてきたそうです。

「日本という国は、外国の方からすると憧れの国のようです」とその方は教えてくれました。

 

その方は、「他の国に行ってみて、日本がいかに、清潔で、礼儀正しくて、親切で、安全な国なのかよくわかった」と話してくれました。

 

例えば、財布を拾ったら交番に届けるとか、順番を待つときは必ず列を作って割り込まないで待つとか、困っている人がいたら助け合うとか...etc

僕たちが日頃から当たり前だと思ってしていることが、外国では必ずしも当たり前ではないんだということをその方は話してくださいました。

 

日本は、安全で、平和な国です。国民も、優しくて思いやりがあり「おもてなし」が誰でも自然にできる民族性を持っています。几帳面で完璧主義的なところがあるので、made in Japanの品質は昔から世界でもトップクラスです。

 

その国民性は先祖代々受け継がれてきたものです。

この世界に誇れる日本の文化や国民性を、これからも大切にして後世に残していきたいものです。

 

 

 

日本人に生まれて良かった                2017/2/25

 

 

 

 

 

 

 

怖い映像

 

先日、あるニュースでとても怖い映像を観ました。

 

今話題になってる大阪の学校法人の幼稚園の光景です。運動会なのですが、その行事の中で、数人の園児たちが挙手して「安倍首相頑張れ!頑張れ!、安保法制国会通過良かったです!、日本がんばれ、日本がんばれ!!」と宣誓しているのです。

 

だいたい、園児が安保法制なんて意味がわかるはずもないのに。

きっと、大人たちが、意味もわからない園児たちに言わせているのでしょう。

これって、思想統制じゃないですか?

 

怖いなあ・・・

 

すごく怖い

 

戦時中の日本や、たくさんのミサイルを発射してる朝鮮半島の某国と同じじゃないですか。

 

日本にも、徐々に怖い思想が蔓延していく懸念があります。

 

国民全体で、注視していかなければならないと思います。

 

 

 

 

福寿草が咲きました                         2017/3/7

 

 

 

 

 

 

心を・・・

 

たまたま西行の歌集を見ていたら、とても魅かれる歌に出会った。

 

 『世をいとふ人とし聞けはかりの宿に

                   心止むなと思ふはかりぞ』

 

遊女が詠んだ歌のようです。

 

意味は

 

 『世の中を厭う人がいると聞くが、所詮この世は仮の宿。

              厭うほどに心を止めてはならぬのだ』

 

 

厭うとは、 嫌って避ける、嫌がるという意味。

一つのことに心を止めて(=こだわって)生きていると辛くなる。

考え方も気持ちも固まってしまい、苦しさが増す。

そして、そこから不安や恐怖が生まれ、それがついて回る。

 

だから、一つのことに心を止めてはならない。

 

西行は、平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた、僧侶、武士、歌人。

その時代に、このような真理をついた歌を詠んだ遊女がいた...

すごいなと思う。

いや......もしかしたら、すごくはないのかもしれない。

科学が発達し、自己の感覚で生きることを見失ってしまっている現代人には無い純粋な感覚と生き方を、当時の人々は当たり前のように知っていたのかもしれない。だから、このような歌が詠めたのかもしれない。

 

 

一つのところに心を止めない.....

 

その瞬間、その瞬間に感じたこと(感覚、気持ち、フィーリング)を大切にし、その感覚に正直に生きること。

そもそも、ベストな選択なんてない。

ベストな生き方なんてないんだから。

 

常識とかルールとかしがらみとか義理とか....

そういったもろもろのものは、止まった心から生まれたものだ。

 

考えるということは、すでにそこに心を止めてしまっているということ。

そういう固まった心や頭で感じたことや考えたことは、固まった行為しか生まない。常識やルールや建前といったような....

それは自由とは言わない。

 

常に、心を動かしていること。体も動かしていること。

一つのところに止めないこと。

 

 

 

僕は、この遊女が詠んだ歌が好きだ。

彼女は、この世の「無常」をよく理解していると感じるからだ。

 

 

 

 

明日にも心を止めない                    2017/3/20

 

 

 

 

 

 

 

  

エゴイズム

 

小さい頃から我慢してきた。

親の顔色を伺いながら、いわゆる「良い子」で生きてきた。

 

でも、ある時から、もういい、や〜めた!って思うようになった。

だって、「良い子」は演じるもの。

疲れるからだ。

 

 

「人のため」とか「家族のため」とか「会社のため」とか「地域のため」とか「国のため」に生きろという人がいる。

でも、それって本当に正しいのだろうか?

 

もちろん、自分一人で生きてるわけじゃないから、少しは周りのことも考えなければならないし、自分の力を自分以外の人のために使ってあげなければならないことも多々あるだろう。

 

でも、そればかりでは虚しい。

そこには、「自分のため」という考え方が乏しいからだ。

 

あえて誤解を承知で言わせて貰えば、

まず、自分を大事にしてあげること....

それは忘れてはならないと思う。

 

自分が気持ち良くなければ、人を気持ち良くしてあげることはできない。

自分が楽しくなければ、人を喜ばせてあげることはできない。

だからまず、自分が気持ち良くなること....

これは大事なことだと思う。

 

 

僕は、どのような状況にあっても、「自分の世界」を大事にする。

思春期を過ぎた頃から、家族がいても、友人がいても、恋人がいても僕はそうしてきた。

「自分の世界」は、どんなに近しい人でも入ってこれない場所。

それは「自分のため」の世界だからだ。

それは、僕がどこにも属さない場所。

 

自分が自分らしくいられる居場所・・・

それは、僕にとっては「自分の世界」でしかありえない。

 

それは、誰かに依存したり、甘えたり、頼ったりしない場所。

もともと甘えることができないから、甘え方がわからないから、「自分の世界」にいても、寂しいと思うことはない。

むしろ、気を遣わなくていいから、「良い子」でいなくていいから、気が楽だ。

 

 

僕はこんな人間だから、他人から見たらとっつきにくくて付き合いにくい人間に見えるだろうし、何を考えているのかわからないと感じるだろう。

 

でも、別に理解してもらおうとは思っていない。決して強がりではなく。

 

他人がどう思おうと、僕は僕でしかないし、これが僕の生き方だから。

 

誰にも「自分の世界」に入らせない.....

「自分の世界」では、理性よりも感情を第一に大事にする。

建前より本音を優先させる。

それが「自分の世界」でのルールであり、僕の最大のエゴイズムだ。

 

「自分の世界」で「自分のため」に生きること・・・

そこから、喜びが生まれ、自分が自分らしく生きることができる。

そうすれば、今度は自分以外の「人のため」に何かをしてあげられるゆとりが生まれ、してあげたいと自然に思えるようになるのではないか?

 

よく、人助けというが、自分にゆとりがないのに人助けはできない。

自分が満たされた人生を送っているからこそ、人助けができるのではないだろうか?

ハリウッドのセレブ達が慈善団体に多額の寄付をするのは、自分の懐(財布)が豊かだからだろう。

経済的にゆとりがない人が、他人のためにお金を使ってあげることはできない。

マザー・テレサのようにお金持ちでない人が人助けを出来るのは、彼女の心が豊かだからだろう。

心が豊かじゃない人が、他人の心を満たしてあげることはできない。

 

 

何れにしても、自分の心も体も満たされていて豊かでなければ「人のため」には生きられない。

「人のため」に生きることができるためには、まず「自分のため」に生きているということが大前提なのだ。

自分が満たされていない人が、人を満たしてあげることはできないからだ。

 

 

エゴイズムというと、よく自己中といったような悪い意味で解釈されることが多い。

でも、本来はエゴイズムはとても大事なものだと思う。

自分のエゴを大事にするからこそ、他人のエゴも愛おしいのだ。

 マザー・テレサも言っている。

『自分を愛せない人が、他人を愛せるはずがない』

 

 

 

自分の心や体に正直に生きること....それは、良い意味でのエゴイズム。

それは、「自分のため」に生きること....

自分らしく生きること....

 

 

 

僕は、常に、自分に正直でありたい。

それは、自分を認め許してあげること。 

そして、それは、他人を認め許してあげることだから。

 

 

 

 

 

 

 

霞む富士に春来たり                        2017/3/22

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の仕事

僕は、「人のために」何か「しなければならない」から、精神科医という仕事をやっているのではない。

子供の頃から医師になるのが夢だったから医師になったし、僕が精神科医として関わることで、患者さんが良くなってくださったり、喜んでくださったり、自分らしく生きていけるようになってくださると、僕自身がとても嬉しいし楽しいし気持ちが良いから精神科医をやらせてもらってる。
つまり、僕にとって、仕事は義務ではなく喜びなのだ。

「…ねばならない」からしてるのではなく、「…したい」から仕事してるのだ。

言い換えれば、仕事は、自分が気持ちよくなるからやってる。
そういう意味では、仕事は「自分のために」やってるとも言える。

面接をしていて患者さんの状態が快復していくと僕の気分も良くなる。それを患者さんと共有すると、患者さんもさらに良くなっていく。
実際、このように、 治療は相乗効果で進んでいくことが多い。

僕が楽しく生き生きと仕事をすれば、患者さんも良くなっていくことが多いんじゃないか?
僕が「自分のために」気持ちよく仕事をすれば、患者さんにとっても良い治療になるんじゃないか?
そう思う。
そういう意味では、「自分のため」に仕事をすることが、「患者さんのため」になるのだ。
精神科医としての仕事は、僕にとっては天職だと思っている。

決して楽とは言えないけど(むしろ大変なことが多い)、大好きな仕事。
自分が自分らしく生きられる大事な時間。


この、与えられた役割を最後までしっかりと全うしたいと思う。







小春日和にシジュウカラ                                                2017/3/23









                            

雪が降っている

 

大粒の雪が降っている。牡丹雪だ。

 

とっさに、僕の心の中には憂鬱な感情が出てきた。

なぜなら、「雪かきをしなければならないのかなあ」「疲れるなあ」「せっかくの休みなのに....」と考えたからだ。

つまり、過去の雪かきをした時の辛かった記憶を思い起こし、そこに心を止めたから嫌な感情が出たのだ。

 

雪が降る→雪が積もる→雪かきをしなければならない→せっかくの休みなのに→疲れる→筋肉痛→明日の仕事がさらに辛くなる....

 

心の中では、こんな流れが生じたのだ。

 

これがもし、子供の頃だったらどうだろう?

 

雪が降る→真っ白で綺麗だ→雪合戦ができる→「やったあ!」→早く外に出よう...

 

となっただろう。

 

雪が降るという現象だけとっても、どうしてこうも、百八十度気持ちが変わってしまうのだろう?

 

さっきから、雪が積もっていく庭を眺めながら恨めしく思っている時間がもったいない。せっかくの休日の時間がブルーになってしまうからだ。

 

では、この憂鬱な感情をどうしたらいいか...?

 

子供の頃の心持ちに戻るように努力する....

確かにそういう考え方も良いだろう。

今すぐに、勇気を出して外に出て雪玉を作って木をめがけて投げてみるのも面白いかもしれないし、それができたらスカッ!とするだろう。

 

行動を起こしてみる(=動く)ことは、感情を変えるにはとても大切なことだ。

 

 

でも、出不精だったり風邪を引いていて外に出られない場合はどうする?

 

そういう時は、「雪が降る」という現象に対してそれ以上想像しないことだ。

心を止めないことだ。

つまり、雪かきをしなければならないことや、筋肉痛になることや、明日の仕事のことを考えないことだ。

だって、実際、雪かきをしなければならないかどうかなんてわからないからだ。もしかしたら、しなくて済むかもしれない。

 

 

ただただ、「雪が降っている」と観察しているだけに留める....

「ああ、雪が降っているなあ...」とだけ感じる....

その、雪が舞い落ちる景色をただ楽しんでみる....

 

そうしていると、自然に憂鬱な感情は消えていく。

 

積もるかもしれないし積もらないかもしれない。

そんなことは俺の知ったことじゃない...

 

そんな感じに思ってみたらどうだろう。

 

 

人間という動物は、一つの出来事に出会うと、過去の良かった経験よりも悪かった経験に結びつけるのが得意だ。

 

本当は、ドキドキしたり、気持ち良かったり、幸せだったりしたことがあったかもしれないのに、そういうことは取り上げずに悪かったことだけ思い出して、この後の展開を悪い方に考えてしまう....

そういうことがないだろうか?

「ああなったらどうしよう....」「こうなったらどうしよう....」と。

でも、本当にそうなるかどうかはわからないではないか。

 

過去の嫌な記憶を元に、何の根拠もないのに、自分で勝手に悪いことを想像し、予期不安を作り、マイナスな感情に浸ったり自分のやりたいことを止めてしまったりしてはいないだろうか?

 

人生は限られた時間...

本当に、あっという間に終わってしまう。

だから、そのような時間の過ごし方はもったいなくはないか...?

 

せっかくたった一回きりの人生なんだから、わざわざ自分でマイナスな感情を作らないようにしたい。

 

 

とりあえずは、もう少し、雪が舞うのを楽しもうと思う。

 

さっきよりは少し小粒になってきた...

こんな雪の中でも、コゲラが餌をついばんでいる。 

 

 

 

 

冬が去りたくないと粘ってる                 2017/3/26

 

 

 

 

 

 

 

モヤモヤ

 

モヤモヤしてる。

 

まだ不況が続き、賃金は上がらない。年金支給時期も引き上げられ、支給額も年々引き下げられる。

愛国心を煽るくせに、この国の社会福祉の政策は冷たい。

 

毎日の生活や人生に先が見えない中で国民が必死に生きているのに、政治家や官僚たちは一体何やってるんだろう.....?

そう思いませんか?

 

豊洲移転の問題で、明らかに責任があるはずの元東京都知事が「他に任せていた」と責任を取ろうとしない。文部科学省の天下り問題。森友学園の様々な疑惑...。

この国のトップたちが、み〜んな嘘ばっかりついている。自分の保身のために。それも、見え見えの嘘を。

 

ここまで体たらくな政治家や官僚たちを見てると、毎日必死に生きていることが馬鹿馬鹿しくなってくる。

自公民の「独裁政治」が、傲慢でナアナアな政治を生んでいる。

本当に、このままではこの国はアブナイ。

 

 

すごく嫌な予感がする.....

 

 

 

 

 

寒い.....4月                          2017/4/2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

満8歳になりました

 

クリニックを開院させていただいて、満8歳になりました。

 

月日が過ぎるのは早いなあと思います。

駅前の満開の桜を眺めながらバタバタと開院したあの日は、ついこの間のことのように思います。

 

これまで、大変な場面はたくさんありましたが、なんとか乗り切れてこれたのは、スタッフや関係者、そして何よりも患者様方のおかげです。

 

クリニックは、まだまだ発展途上です。

患者様方に充分な医療サービスができているとは思っていません。

 

特に、初診の患者様の予約が先まで入ってしまっていてすぐに診て差し上げられないこと...この点は、開院して以来ずっと悩み続けていることです。

しかし、1日50人以上の再診の患者様を診療していると、初診の患者様に充てる時間(45分)がどうしても限られてしまう。これは究極の悩みです。

 

また、精神科という心を扱う診療科の性質上、どうしても、薬を出してハイおしまいというわけにはいかない。

どんなに安定されている患者様でも、お一人々々のお話をしっかり聴かせていただくと、最低でもお一人当たり10分から15分は必要です。

涙を流されたり、希死念慮があったり、入院が必要な患者様に対してはもっと長い面接が必要になります。そうなると、やむを得ず他の患者様にお待ち願うこともある。それも、とても心苦しいことです。

予約時間通りに来院していただいているのにその通りにいかない....

そういう申し訳なさです。

精神科は、体を扱う科と違い、こういう点が全く違います。

 

昔、皮膚科医をしていた頃は、患者さん一人当たりの診察時間は数分なんてこともざらにありました。患部を診て診断して処方するまで5分もかかりません。夏の一番忙しい時期は1日100人以上なんて普通でしたから、時間をかけてじっくりなんていうゆとりは全くなかった。それでも話し込んでよく看護師さんに叱られましたが(笑)。

 

 

 

僕のクリニックは、待合室が狭い。クリニックの全面積を合わせても約15坪しかないので、患者様が10名もいらっしゃるともうキツキツになってしまいます。ただでさえ気分をお悪くされて来院されるわけですからもっとゆったりとした空間でお待ち頂かなければならないと思うのですが、物理的な限界は何ともし難い。そこも悩みの一つです。

狭い空間で待ちにくい患者様には、クリニックが入っているベルビアの館内の待合広場でお待ちいただくこともしています。

 

 

 

このように、まだまだ不充分で至らない点が多いクリニックですが、これからも、できる限り、患者様の目線で、少しでも患者様に喜んでいただけるようなクリニックにしていきたいとスタッフ一同考えておりますので、今後とも、よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

春はまだ....                        2017/4/13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

押入れ

 

実家の押入れ。

 

そこは、格好の遊び場だった。

 

幼少期の頃、よく兄弟でかくれんぼや探検ごっこをした時、押入れは絶対に外せない空間の一つだった。

そこには柔らかな布団がある。その中に包まれていると、妙に安心したものだ。特に、天日干しされた後の布団はお日様の匂いがプンプンして、それはそれは心地良かった。そのまま眠りこけてしまって、気がついた時は鬼ごっこは終わって夕食の時間になっていたこともあった。また、親に叱られた時には逃げ込む場所でもあった。でも、親はよく知っていて、僕が隠れていると知ると押入れの戸を閉めて出られないようにした。

押入れは、僕にとって安らげる場所でもあり、ちょぴり怖い空間でもあった。

 

今から考えると、押入れという空間は、僕にとっては母親の「胎内」のような働きをしてくれていたのかもしれない。

 

不安な時、怖い時、甘えたいけど甘えられない時....

そういう時に守ってくれる空間、包み込んでくれる場所....

 

 

人生の中で最も安らげる時期・・・それは、母親の胎内にいる10ヶ月ではないだろうか?

その時期は、母親と一心同体。こんなに安心できる時期はない。

 

でも、人は出産という形で胎内から外に出ると一人で生きていかなければならない。

人生を生きる不安、孤独、恐怖は、誕生のその瞬間から始まる。

だから、誰にだって時々逃げ込む空間が必要なのだ。

 

でも、今は西洋化してベッドなるものが主流となり、布団を敷いて寝るという従来の習慣が少なくなっている。それにつれて、(布団をしまうための)押入れは少なくなった。生物でいうと絶滅危惧種のように。

 

合理化・機能化・コスト削減という名の下、押入れのような一見「無駄」な空間が家から失われつつある。

でも、本当はこういう「無駄な」空間こそ大切なのではないか?

こういう空間こそ、心を癒す機能を持っている。

こういう空間こそ、喧騒やしがらみから離れて一人になることができ、包まれながら知恵や想像力を働かせ、夢想に浸ることができる。

 

昨今、家という空間だけではなく社会全体にも、そういう逃げ込める空間が少なくなってきているような気がする。

むしろ、逃げてはいけないという風潮さえある。

 

寂しい限りだ。

 

 

 

 

 

少し出かけてみようか                  2017/4/16

 

 

 

 

 

 

電車ごっこ

 

小さい頃から乗り物が好きだった。

 

特に電車。両親は免許を持っていなかったから、もっぱら、遠くへの移動手段は電車。だから、電車は僕にとっては憧れの乗り物だった。見るのも好きだったし、乗るのも好きだった。特に連結器が好きだった。どうしてかはわからない。何であんなところが好きなの?とよく親に尋ねられたが、自分でもわからなかった。おそらく、あの複雑な形や車両と車両を繋ぎ留めるという大役を担っていることに尊敬の念を持っていたからだろう。でも、その微妙なニュアンスは言葉では表現できなかった。車輪を押さえつけて止めるブレーキも好きだった。男の子というのは、何かああいったごちゃごちゃした機械的な物になぜか惹かれるものなのだ。

 

電車に乗る時は、いつも一番前。運転手さんの後ろの席。そこからは、運転手さんと同じ景色が眺められるからだ。でも、その席は大抵埋まっている。一番人気の場所だからだ。そういう場合は、仕方がないから運転室へのドアのところに立つ。そうやって、自分が運転手さんになりきるのだ。

 

 

幼稚園にあがる前の頃だったろうか...。

毎日、十数畳ばかりの居間をグルグル何周も廻っていた。「ダダッタター、ダダッタター」「ダダッタタン、ダダッタタン...」「ゴオーーッ」「踏切よーし」「まもなくう、名古屋、名古屋でございます。お忘れ物のないようにお支度ください。お乗換えのご案内をいたします。東海道新幹線は・・・」etc........(今、電車がどこを走ってるか、ご想像にお任せします)

と独り言をつぶやきながら何周も何周も。よく考えればおかしいが、運転手と車掌を同時にやりながら這いずり回っていたわけだ。

 

まだ体が小さかったから、椅子やテーブルはそのままトンネルになった。その「家具トンネル」は、あの電車に乗っているときにドキドキしながらくぐるトンネルそのものだった。その習慣はお客が来ようが御構い無し。客の足を新しいトンネルにしてくぐっていた。むしろ、僕にとっては本物のトンネル以上にリアルなトンネルだった。

 

 

 

子供の想像力は素晴らしい。

その気さえあれば、どこにでも行けるし何にでもなれる。

 

物心ついてからは、そんなことは恥ずかしいと言ってやらなくなったが、大人になった今でも、そういう欲求は残っている気がする。

誰の目も気にしないで、自由に想像の世界に浸る。

こんなに気持ちが良いことはないだろうな....

 

これから、電車ごっこやってみようかな....

 

 

 

 

春霞の夕暮れ                          2017/4/16

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思い出

 

人が亡くなった時、僕たちは、その人の何を思い出すんだろう?

 

もちろん良いことも悪いことも思い出すのだろうが、時間が経つにつれ、その人にしてもらったことや、その人から受けた感動などが心の中に残っていくのではないだろうか?たとえ、その人が自分にとって嫌な人であったとしても。

 

 

もしそうなら、このことを対人関係に生かせないだろうか?

もし嫌な人がいたら、その人にしてもらったことを思い出してみる。

もし嫌われていると思ってる人がいたら、その人にしてあげたことを思い出してみる。

そして、もう少し余力があれば、その人に迷惑をかけてしまったことを思い出してみる。

 

そんな工夫も面白いかもしれない。

 

 

話は変わるが、医学部時代に忘れられない出来事があった。

例の「松本サリン事件」だ。オウム真理教のメンバーが松本の住宅街でサリンを撒き、多数の犠牲者が出た事件。

あの時の犠牲者の中に医学部の同級生がいた。僕たちがちょうど最終学年の6年生の時だった。

 

その子は、東京の有名私大を卒業して医学部に入り直した再受験組のうちの一人だった。僕も再受験組だったから、その子は同志のような存在だった。

当時、信大医学部は全国の医学部の中でも再受験生が多いと言われていた。

僕たち再受験組は定員100名中約10名。つまり、約1割が再受験生だった。現役生よりもハンディを抱えて再受験するわけだから、皆いずれも医師になりたいというモチベーションが人一倍強かった。だから、いつも「同志」のような感覚で団結力が強く、よく行動を共にしていた。再受験組は現役生から「お達者クラブ」と呼ばれていたが、僕はその中で一番年長だったから「お達者クラブの会長」を仰せつかった。

 

 

その子はとても優秀だった。各科を回る臨床実習をポリクリというが、その子は、脳神経外科のポリクリの最終発表を全て英語でスピーチし、教授を含め教室員を驚かせた。

 

その子とは再受験組の良き友人=同士という関係だったが、こんな思い出がある。

どういう経緯か覚えていないが、ある時その子と松本の画材店に行った。陳列品を見ているうちに、僕が何らかの拍子に展示してあった絵の具箱を床に落としてしまい、たくさんの絵の具のチューブが散乱した。

その時、僕は一瞬何が起こったのかわからなくなってしまい立ちすくんでいたのだが(情けない...)、その子は一言も言わずにしゃがみこんでササっと散乱した商品を片付けてくれた。何もしなかった僕は恥ずかしかった。その子に謝り、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で「ありがとう」と言った。

 

その子のことを思うと、その時のことが昨日のことのように思い浮かぶ。

 

その子が医師になっていたら、きっと優秀で患者さんに親しまれる名医になっていただろう。

 

僕は、その子が再受験組の「同志」であったということだけではなく、ささやかな思い出だが、その時にその子にしてもらったことがいつまでも心の中に残っている。

今その子はいないが、僕の心の中では、その時のその子が今でも生き続けている。

 

だから、僕はいつも思う。

その子の分まで立派な医師になろうと。

医師になりたくてもなれなかったその子の悔しさを絶対晴らしてやろうと。

 

医師は大変な職業だ。でも、どんなに辛くても、僕が医師として一生懸命患者さんに尽くすことこそが、その時のその子への僕の恩返し....そう思う。

 

仕事をしていて辛いなと思った時は、その子のことを思い出しながら頑張っている。

 

 

 

 

 

明日からまた踏ん張ろう                     2017/4/16

 

 

 

 

 

 

 

 

この国はどこへ....

 

 昨日、安倍総理大臣が、ビデオのメッセージとして、2020年の東京オリンピックまでに憲法改正を実現するとはっきり宣言した。「国民会議」という憲法改正を支持する団体の集会に向けて作られたビデオのようだが、そこは、マスコミが取材することは想定内。当然、首相は全国ネットで報道されることも想定した上でのことだろう。つまり、国民に向けて「本音」を伝えたのだ。あれだけ、今まで自分の意見を述べるのは差し控える姿勢を取ってきたのに。

 

 昨今の朝鮮半島の緊張、竹島や尖閣諸島の問題、天皇陛下の退任、世界情勢の「分断化」などを背景に、一気に国民に改憲の必要性を訴えていくつもりなのだろう。

 その直後に、自民党幹部が記者会見で、「自民党は改憲政党。だから、憲法改正に突き進んでいく」と躊躇なく述べていた。

 

 ・・・・いったいこれは何?

 

 まだ憲法を改正する議論は国民の間でほとんど議論されていないのにもかかわらず、どんどん話が進んで行ってしまっていて、一国の首相がこんな大事な問題を決めつけるような言い方で発言してしまってる。こんなこと許されるのだろうか??まだ、「党内で憲法改正についての話題が出ておりますが、皆さんはどうお考えでしょうか?これから、国民の皆さんに議論していただいて....」といった感じのメッセージならわかる。しかし、昨日の首相の言い方はそういうソフトなものではなく、かなり断定的なものだった。

 

 怖いと思いませんか?

 

 憲法・・・特に、戦争放棄・平和主義を骨子とした第9条は、今まで日本国民が誇りにしてきた条項。憲法の中でも、国民の精神性が強く反映されている条項です。

 過去に、日本は大東亜共栄圏を拡大するために近隣諸国を植民地化し、様々な国の人たちに苦しみを与えた。真珠湾攻撃で開戦の口火を切ったのも日本。その結果、世界で唯一原爆を落とされ多くの日本人が亡くなった。今もその後遺症で悩まれている方がたくさんいる。戦争で家族を失った遺族や子孫の悲しみも癒えていない。

 だからこそ、「もう二度と、戦争というあんな悲惨なことを起こしてはならない、経験したくない」という強い願いからあの憲法第9条が草案されたのではなかったか?

 

 「一切の武器・武力を放棄する....。平和を希求する....」

   

  その貴重な精神はどこに行ってしまったのか?

 

 政府は、武器や武力を持っても正当防衛の時にしか使わないと言っている。でもこれは詭弁だ。いったん戦争が起こってしまえば、正当防衛もクソもない。戦場では、自分が殺されたくないがために敵も味方もなく殺し合う...戦争とはそういうものであることは、先の様々な戦争での経験者の言葉から自明なこと。今でも、自衛隊の護衛艦が日本海に展開するアメリカ海軍の空母カールビンソンの護衛任務に就いているが、もし北朝鮮が戦争を仕掛けてきたら、護衛に回っている日本も敵国になり確実に戦争に巻き込まれるだろう。

 つまり、政府が説明している有事の際の考え方は、全く机上の空論なのだ。

 

 テロ防止法案も献上され、いずれ、自公民の多数決で成立してしまうだろう。これも怖い法律だ。見方によっては何でもできる法律。政府にたてつく奴はいつでもしょっぴける。「国家の方針に反する思想を持っていた(=テロを計画していた)」と理由をつけられ逮捕されるなんてこともありうる。僕が今こんなことを書けるのも時間の問題かもしれない。戦時中も、国の政策に異議を唱える人を反国家分子として憲兵が次々と逮捕した時代があったことを思い出す。何か、今の日本のあり方は、その頃に似てきているように感じる。

 

 怖いなあ・・・

 

 いったい、これからの日本はどこへ行ってしまうんだろう....?

 

 今世界は、資本主義が行き詰まり世界が分断化されつつある。世界がバラバラになりつつある。本当は今こそ、「俺の国、私の国...」なんて言っているのではなく、すべての国や民族がその垣根を越えて一つにまとまって助け合わなければならないのに、逆の方向に行っているような気がしてならない。

 

 日本は、武力を持たないで平和主義を実現しそれを世界にも発信していく義務があるのに....

 むしろ、そこに日本人としての誇りや希望があったはずなのに、今その貴重な精神が壊されようとしている。一部の急進的な政治家たちによって。

 

 今こそ、僕たち国民は、その「詭弁的な」発言に惑わされることなく、冷静にこの国の行くべき方向性を考えていかなければならない。

 

 

 人が人を傷つけたり殺したりしてはいけない

 そこにはどんな言い訳も許されない

 

 

 

 そういう当たり前のことを忘れてはならないと思う。

 

 

 

 

 

 

歴史は繰り返すのか?                      2017/5/3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

理想主義

 

「武器を持つな、武力を持つな....というが、それは理想主義だ。アジアや世界の現状を見てみろ」という声が聞こえてきそうだ。

 

 理想主義のどこがいけない?

 

 そもそも、今の世界の混迷は資本主義という現実主義的なあり方のツケが回ってきている結果ではないのか?

 金を儲ける....それを国や個人だけのために使う。そこには、他国のためとか他人のためという発想はない。自国、自分が経済的に豊かになりさえすればいいという極めて現実主義的な発想がある。だから、「先進国」と言われる一部の国々が世界の大多数の富を支配し、世界中に貧富の差(格差)が生まれ、それがそのまま国の力をランク付けしている。裕福な国はいつまでも裕福で、貧しい国はいつまでも貧しい。そして、裕福な国が武力を持つことができ、それを増強することで経済面だけではなく政治的にも世界を支配している。

 

 しかし、皮肉なことに、その「格差」は、世界を支配している先進国の国内でも生じている。アメリカでもわが国でも。資本主義が貧富の差を作り、裕福な人はますます裕福になり、貧しい人はますます貧しくなってる。日本は、先進諸国の中でも貧富の差が大きい点ではトップクラスだ。

 そして、その自国の経済的、民族的、人種的相違=「格差」が分断を呼び、その国内の混乱がナショナリズムを生む結果になっているのではないだろうか?つまり、各国内の格差が国民の不満を生みナショナリズムを生んでいる。だから、現状はとても深刻なのだ。

 

 

 

 ここへ来て、トランプアメリカ大統領をはじめとするナショナリズムが世界中に台頭し始めており、今まで以上に世界がまとまりにくくなっている。

 

 怖いことだ....

 

 自国の利益を最優先するというナショナリズムの考え方は、他国や隣国を助けることは二の次。自国の利益が妨げられれば、最悪の場合、武力を行使してでもそれを守ろうとするだろう。そこに戦争の火種が生まれる。最近「分断」という言葉がよく取り上げられるが、ここ数年の世界情勢の変化は、人類史上、最も危ない状態になりつつあると僕は感じている。

 

 こういう観点から考えると、今人類に必要なのは現実主義ではない。理想主義だ。

 

 理想は夢かもしれない。しかし、夢を持てなくなった人間は、お互いが支え合って地球という天体を守り世界を平和で豊かにしていくモチベーションを失うだろう。

 

 

 今わが国で起こっている憲法改正の問題は、ただ自衛隊を憲法上認めるという趣旨のちっぽけな問題ではない。

 自衛隊が憲法上認められるかどうか以前に、武器や武力を持つこと自体の是非が問われているのだ。なぜなら、日本は戦争に負けた時、憲法9条という形で世界に「日本は二度と武器や武力を持たない。戦争はしない」と約束したからだ。その平和主義の精神性を守り、世界に約束したことをこれからも継続し履行していくかどうかの問題なのだ。

 

 今政府がやろうとしていることは、日本が約束したことを反故にすることだ。世界に対して嘘をつくことだ。政府は、自国を守るという理由で世界に対して嘘をついている今の状況を正当化しようとしている。本当は、アメリカに良い顔をしたいだけだ。

 

 

 本当にナンセンスな事態が起こっている。今の日本には。

 

 再度言う。

 理想主義の何がいけない?

 

 今こそ、日本が世界に示した『理想』『夢』を思い起こし大切に守っていかなければならないのではないか?

 

 武器や武力を持つことで平和は維持できない。

 人間には闘争本能があるため、それらを持っていれば必ず使いたくなるからだ。世界中に起こっているテロ、アメリカの市民レベルの銃による悲惨な事件、最近はわが国でも銃刀などによる殺人事件は珍しくないことを見れば明らかだろう。

 

 武力では問題は決して解決しない。

 

 だから、理想主義はとても大事なのだ。それは、そのまま精神=心につながる....いや、むしろその逆で、精神=心が理想主義の根幹だからだ。

 

 

 世界中の人たちがお互いの宗教や文化の違いを共有して認め合い、尊敬し合い、助け合うようなあり方。本当は、皆そういうあり方を求めているはずだ。僕たちは、そのような世界を作っていかなければならない。

 そのためには、どうしても理想主義は不可欠なのだ。

 

 

 このような、「世界」や「人類」というグローバル的な視野を持った指導者が出てこないものだろうか?日本でも、超党派的なものの見方が出来る政治家は出てこないのだろうか?今の日本の政治家は、皆、所属政党や個人の利益だけを考えて動いているように映る。そして、国民はそんな政治家たちの有り様を見て完全に諦めている。自公民が「支持」されているのは国民の本当の意思ではない。野党があまりにもどうしようもないから、消去法で仕方なく、「どこの党もイマイチだからとりあえず....」という理由で国会の大多数を占めているだけなのだ。

 

 これは、国民の意思を最も尊重される民主主義ではない。自公民の独裁政治だ。今の政治は本質的に北朝鮮と変わらないと思う。安倍内閣による独裁政権だと言っていい。数の力に任せて、国民の意思とはかけ離れたところでどんどんヤバい法律を決めていく。あれだけ多くの法律学者たちが「違憲」と主張した憲法改正さえも....

 

 このままでは、この国は間違った方向へ行ってしまう。

 

 行く末は闇だ.....

 

 

 

 

 

 

すごく変だよ、この国....                       2017/5/4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自由ということ

 

自由とは『自』と『由』と書く。

 

つまり、『自ら』に『由る』ということ。

『自ら』に『由って』生きるという在り方。

自由とは、何にも拘束されず、何にも依存せず在ること。

 

それは、「自己」として独立していること。

精神的にも、肉体的にも、社会的にも。

 

人間関係で言えば、誰にも拘束されず、誰にも依存しないこと。

 

それが『自由』

 

 

僕は、常にそういう状態を好んで生きてきたし、今もそう。

 

自由に孤独はつきもの。ちょうどコインの表と裏の関係のように。

だから、僕は孤独が好きだ。というか、孤独は自分らしい在り方のひとつ。

自分一人で、自由に思考をめぐらせたり想像している時間が好きだ。

そこは、誰にも邪魔されない世界だから。

人に邪魔されない一人の時間....孤独な時間があるからこそ、好きな世界に飛んでいくことができる。

 

 

人はよく「孤独=寂しい」と言う。

 

でも、僕はちっとも寂しくなんかない。

たくさんの人と飲み食いしていても、勉強会に出ている時も....

いつどんな時でも孤独だなあと思う。

常に孤独だが、それでいけないとは思わない。変えなきゃとも思わない。

むしろ、僕らしいと思う。もともと僕は天邪鬼だし群れるのが嫌いだから、特にそういう傾向は強い。

 

 

でも、そもそも人は皆孤独じゃないか?

心から「私は孤独じゃない」という人がいたら話を聞いてみたい。

 

僕からすれば、自覚するかしないかは別として、皆孤独で寂しいけどそれを何とかごまかして生きているように見える。

 

 

『自由』とは孤独でいいじゃん!と思えることだ。

 

そこには、そういう自分を冷静に見る眼と、周囲の人や全ての事象を冷静に観察する眼を持っていなければならない。

そうしなければ、人や環境に「とらわれてしまう」=「拘束されてしまう」ので「自由」になれない。

 

「自由」とは「孤独」なものだが、それは言い換えれば「とらわれない」=「依存しない」ということでもある。

 

孤独は寂しいから嫌だという人は本当の自由は得られない。

なぜなら、寂しさを埋めてくれる他人を求め依存しているからだ。

他人が自分の孤独を満たしてくれると思っている(本当は錯覚だが)。

そこには、他人への「とらわれ」がある。「依存」がある。

それは「自由」とは言わない。

なぜなら、人は常に変化するからだ。

人の心も体も変化し、いつかは死を迎える。

そういう変化するものにとらわれたら(依存したら)、相手が変化した時やいなくなった時に自分を見失う。「自由」を失う。

 

だから、変化するものに依存したりとらわれてはいけないのだ。

 

最近、子供やペットに依存する人が多いが、それも僕からすれば「とらわれ=依存」の良い例だと思う。

子供やペットは必ずいつかいなくなる。その時、自分が平気でいられるか。少しの悲しみを残すだけで、また一人で立って生きていけるか。その自分の在り方で「とらわれて=依存して」いたかどうかがわかる。自由だったか不自由だったかも。

 

常に『自由』な人は、そもそも人やペットや物に「とらわれない=依存しない」。

だから、いざそのような別れがあってもそんなにうろたえない。引きずらない。常に、自分と対象(相手)を客観的に観察し冷静でいるからだ。

ある程度の距離感を保っていられるからだ。

自分が『自律』しているからだ。

 

それを『自由』という。

 

だから、『自由』と『自律』は同義だ。

 

『自由』は、『自ら』に『由る』こと。

『自律』は、『自ら』を『律する』こと。

 

『自由」になるためには『自律』していなければならない。

 

 

孤独というのは、僕が自分らしくいられるためになくてはならない在り方だが、そこには『自由』と『自律』のテーマがある。

 

それは、僕の人生にとって大事なテーマだ。

 

 

 

 

 

 

 

まだわからないことが多すぎる               2017/5/6

 

 

 

 

 

 

 

自由と所有

 

今、『所有』ということについて考えている。

 

 先ほど『とらわれ』『依存』という言葉を使った。

 それは 言い換えれば『自由』でないこと。つまり『不自由』なことだろう。

 

つまり、『とらわれ』=『依存』→『不自由』

 

 人が何かにとらわれている時、それは、その「何か」を『所有』したいと願ったり『所有』してしまった時ではないか?

 

 例えば、お金が欲しいと思う時。俗世の人であれば、誰だってお金は欲しいだろう。そういう時はお金を手に入れることに「とらわれ」ている。「依存して」いる。だから、残業までしてお金を手に入れようとしたり、中にはサラ金に手を出す人もいる。”銀行なんかに預けていては資産は増えませんよ。もっと効果的に資産を増やす方法があります”なんてうまい謳い文句に惑わされて、株やFX(外国為替証拠金取引)、投資信託、不動産投資などに走る人もいる。もっと手っ取り早くという人は、パチンコ、競馬、競輪、競艇なんていうギャンブルもある。

 僕たちの身の回りには、お金に『とらわれ』させてくれるものに溢れている。でも、それらの中で、確実にお金が手に入ったりお金を増やしたりできるものがあるだろうか?そんなものはない。その世界のプロでもない限り、お金を手に入れたり増やしたりすることはできないだろう。

 

 でも、その極めて不確実なものにハマってしまうと、そのことばかりが頭にあり生活が一変する。株やFXにとらわれている人は常に株価や為替の動向が気になり、一日中変動チャートを見ていないと気が済まなくなる。

 まさに、『とらわれ=依存』である。そして、生活が『不自由』になる。

 

人の関係に『とらわれる』人もいる。

 職場に嫌な人がいるとする。しょっちゅう嫌味を言ってくる。その人と仕事をしていると憂鬱になる。そのうち顔も見たくなくなる。仕事に集中できず、会社にも行きたくなくなる。出勤日にはお腹が痛くなる。これはまさに『とらわれ』の状態だ。その人となんとかうまくやろうと必死になって取り入ろうとしている場合はその人に『依存』している。何れにしても、そうなると会社生活が『不自由』になる。

 

 あえて、おしかりを受けることを覚悟で言えば、人間関係の中で、恋愛や結婚は『とらわれ=依存』を作りやすい最たるものだと思う。

 恋愛は、本当に相手を好きになると、相手の注意を惹きたい...から始まって、相手に認められたい、相手に愛されたい、相手と一緒にいたい、相手が自分のものだけでいてほしい...と思う。結婚は、その恋愛の願望を「制度的に」保証?(精神までは保証されないが、あくまでも戸籍という制度上の保証)される形態だ。

 

 でも、恋愛も結婚も、相手への想いが強すぎると...つまり相手に『とらわれる=依存する』とろくなことはない。相手を縛り拘束し自由を奪う。自分も相手がいないといられないみたいになるから自由が利かなくなる。結果、相手を『不自由』にするし自分も『不自由』になる。

 

ある小説家が「結婚とは忍耐である」と言った。

 結婚とは、人を『不自由』にする最たる人間の在り方かもしれない(これから結婚する予定がある方がこの文章を読んでいたら申し訳ない[汗])。

 僕のクリニックにも、結婚してもうまくいかなくて悩み苦しんでいる患者様がたくさんいらっしゃる。

 結婚式で牧師さんや参列者の前であんなに荘厳な形でお互いの”永遠の愛”を誓い合っても、なぜこんなにたくさんの人たちが夫婦の問題で悩んでいるのか?離婚したいと思っているのか?

 そもそも”永遠の愛”なんてあるのだろうか?

 

 人間は、相手との関係を固定させ保証させることで安心を得ようとする。

でも、そもそも人間の関係に、固定した、保証された関係なんて存在しない。なぜなら、人は常に移ろいゆくからだ。人の心も体も...。常に変化している(この瞬間も)から、永遠なんてないし保証された関係なんていうのも有り得ない(唯一あるとすれば、親が子供を思う気持ちくらいか)。

 

 

 今、お金と人間関係を例に挙げたが、お金は物質。人間は人。

 何れにしても、それらに『とらわれる=依存する』のは、それらを『所有』したいと望むことから始まるのではないか?

 

 『所有』とは、手に入れて自分の思い通りにするということだ。

 でも、その『所有』したものが思い通りにならないと、不安やイライラや落ち込みが生じる。それが『とらわれ=依存』だ。そうなると自分を見失う。

 

 だから、『所有』というのはとても自己中心的な行為だし、自分を『不自由』にさせる行為だ。

 なぜなら、『所有』すると自分の思い通りにしたいがために相手を束縛して『不自由』にしてしまうし、その結果自分も『不自由』になるからだ。

 相手を自分の思い通りにすることはできないし、『所有』できたとしても、またそれ以上の『所有』を望むからだ。『所有』には際限がない。

 例えば、宝くじで大金が入ったとしよう。でも、人はそれだけでは満たされない。当たったのならまた当たるかもしれない...と考えてもっと大金をはたいて買い続ける。結果、手元の資金がなくなっていたなんてことはよくあることだ。

 人間の『所有』したいという欲望にはキリがない。

 

 だから、『所有』できたと思ってもそれは「錯覚」で、満たされることはないのだ。

 

 

 『所有』したいと思ったら、その対象と常に距離を取っていなければならない。

 例えば、宝くじを買うなら生活費にまで手を出してしまってはいけない。お小遣いの範囲で買うべきだ。

 人を好きになるのであれば、相手を自分だけのものにしようなんて思ってはいけない。いつか別れる時が来るかもしれないと考えて、常に距離をとって『依存』しないようにしていないとうまくいかないだろう。

 結婚しても、永遠に愛し合うなんてことは考えない方が良い。いつか仮面夫婦になるかもな...くらいに考えて、そうなった時にも自分を見失わずに一人で生きていけるくらいの準備を整えて結婚するなら良いだろう。間違っても、今のラブラブの状態が「永遠に」続くなんて考えてはいけない。

 

そもそも、『永遠』という状態なんてこの世にはないから。

この世の全ての事象は、常に移ろい行き変化していくものだから。

 

 

こう考えてくると。あるものを『所有』する場合は、自分が『自律』しているということが必要条件になる。

 

 『自律』ということは『自分』を『律する』ことができること。

 つまり、対象に惑わされず、振り回されず、自分一人でも自分らしく生きていけること。それが『自律』。

 

 『自律』している人だけが、対象をうまく『所有』できる。

 それは、対象を生かしながら自分も自分らしくいることができるということ。

 そのためには、自分と対象を冷静に見る眼が不可欠だし、そこから生まれる「距離感」が大切だ。

 

 そして、『自律』した人が上手に『所有』できた時に初めて、そこに『自由』が生まれるのではないか?

 

 先にも述べたように、『自由』とは『自ら』に『由る』こと。

 何にも『とらわれ』たり『依存』しないで、自分の力で自分らしく生きている(=『自律』している)ことだから。

 

 

 ここでようやく、『自由』と『自律』と『所有』が結びついた。

 

 

 

 

 

人間とはなんて弱い生き物なんだろう....                         2017/5/7

 

     

 

 

 

 

 

所有と不安

 

いつだったか、『不安』について書いた。

 

 その際、僕の考えでは『不安』には大きく分けて二つの『不安』があると述べた。

 

 「生きる不安」と「存在する不安」

 

その内で、『生きる不安』というのはどこから出てくるのか?

それは『所有』したくてもできないところから生ずるのではないか?と思う。

 

 例えば、明日からの仕事がうまくいくだろうか?今の給料で子供の教育費が払えるのだろうか?懇談会でママ友とどうやったらうまくやれるか?好きでもない旦那とどうやって生きていけばいいか?好きになった人と何を話したらいいか?会議の司会でうまく話せるだろうか......?etc..

 

 僕たちは、生きていればこういった様々な悩みを持つが、これは全て「自分が満足できる状態を『所有』したい」といった願望(欲望)から生まれるものではないだろうか?

 

 仕事がうまくいくか?という不安は、安定した仕事を『所有』したいという所有欲から生まれたもの。子供に教育費が払えるか?という不安は、経済的に安定した生活を『所有』したいという所有欲から生まれたもの。ママ友とうまくやっていけるか?という不安は、誰とでも仲良くやりたいし受け入れてもらえる人間関係を『所有』したいという所有欲から生まれたもの。旦那とどうやって生きていくか?という不安は、安定した結婚生活を『所有』したいという所有欲から生まれたもの。好きになった人との会話がうまくできるか?という不安は、安定した恋愛関係を『所有』したいという所有欲から生まれたもの。人前ででうまく話せるか?という不安は、皆に受け入れてもらえる人間関係を『所有』したいという所有欲から生まれたもの....

 

 皆、自分の思い通り・願い通りにしたいという欲求・・・『所有』欲から生まれたもの。

 

それは、言い換えれば、『とらわれ』『依存』。

 

 人は、『所有』することに『とらわれ』『依存』してしまうと不安が生まれる。なぜなら、すべてのものは自分の思い通りにはならない...つまり『所有』できないからだ。

 

 『所有』できなければ自分の心は満たされず、欲求不満や寂しさやイライラが溜まり、不安が出てくる。少なくとも、『所有』すれば安定していられる...『所有』していれば幸せになれると思っていたら大間違い。そんなふうに考えたら自分を見失う。

 

 そもそも、自分のことさえ思い通りにならないのに、自分以外のものや人を思い通りにできるのだろうか?

 できるはずはない。

 そもそも、人生とは思い通りにならないものなのだ。

 それなのに、その点を理解せずに自分の思い通りになると勘違いして『所有』にあくせくし、そこに自分の安心を見出そうとするから逆に『不安』になるのだ。

 

だから、『所有』しようと思わないこと...

『不安』に振り回されないためにはそれが大事だ。

 

しかし、もし『所有』してしまったら....

 その対象と適度な距離をとること。

 そして、冷静に自分と対象を観察し、「とらわれ」たり『依存」したりしていないか観察すること。

 間違っても、『所有』できたから安心や幸せを保証された!とか、私の居場所を見つけた!なんて考えないこと。それは”錯覚”だから。

 

 もし『所有』していて自分を見失いそうになったら、その時には『所有』しているものを思い切って捨ててみる....

 そういう覚悟も必要だと思う。

 

 

 先に、冷静さや客観的なものの見方が大切だと書いた。それは、『所有』という行為を冷静に観察し、それに巻き込まれたり振り回されて自分を見失わないようにするためだ。

 

 『所有』という行為を冷静にコントロールできること...

  それが、「生きる不安」とうまく付き合っていく方法だと思う。

 

 

 

 

 

 

人間とはやっかいな生き物だ                            2017/5/7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『存在する不安』と所有

 

僕たちは、この世に存在していていいんだと思えるためには何が必要なのだろうか?

 

 僕自身は、こう問いながらも、存在すること自体に意味はない....だから、誰でもどんな生き物でも最初から存在していていいんだと思っている。

 

 ただ、人はなぜ『所有』したがるのか?と考えた時、もしかしたら、それは『存在する不安』と関係しているのではないか?と思う。

 

 僕たちはなぜこの世に生まれてきたかわからない。

 いつの間にか知らないうちにこの世に生まれ、いつの間にか苦しみながら生きることを強いられて?いる。お釈迦様も「人生は苦である」と言って入滅したように、生きることはとても大変なことだ。

 このように、僕たち人は、生まれついた頃から不確実で不安定な存在として、在る。

 僕のクリニックでも、「何のために生きているのかわからない」「生きるとはどういうことですか?」といった悩みや疑問をよく耳にする。

 これは、自分がこの世に存在していて良いのか?という根源的な不安〜すなわち『存在する不安』があるからではないだろうか?

 

 そして、その疑問の背景には「他者」の存在抜きには考えられない。

 つまり、自分がこの世に生きていて良いのか?という問いは、「他者」に向けて発せられているのではないか?言い換えれば、「私は、『他者』にとって生きていて良い存在なのか?」という疑問が『存在する不安』なのではないか?

 

 人は一人で生きているわけではない。必ず「他者」と共に生きている。

 そういう「他者」を強く意識し敏感に生きるという点が、生物の中でも人間の特徴なのだろうし、人間が社会的動物と言われる所以だろう。

 

 前のブログで例に挙げた、会社でうまくやっていけるか?ママ友に受け入れてもらえるか?etc...は、すべて「他者」を意識したものだろう。

 

 

 そもそも、物を『所有』したりより良い人間関係を『所有』する欲求は、生まれつき不確実で不完全な自己を埋め合わせるための行為なのではないか?それは「他者」の目を意識している要素が強いのではないか....?

 

 例えば、高級車BMWを買えたとする。その行為が、BMWの歴史や思想に共感し車そのものの魅力に惹かれて買うならわかる。しかし、ただBMWが有名な高級車で他人から羨ましい思われたいから買ったとなると、それは車よりも「他者」を意識した行為、つまり見栄だろう。また、有名大学に入れば皆からすごいと思われるから東大を目指すというのも大学よりも「他者」の目を意識したものだろう。

 また、お金持ちで将来性のある男性だからといって結婚するなら、それは人よりも安定した生活や「他者」の目を意識したものだろうし、痩せれば綺麗になれると一生懸命ダイエットしている人は、すらりとした体を手に入れることで「他者」からよく見られたいという、やはり「他者」の眼を意識した欲求がある。

 

 いずれも、不確実で不完全な自分が、自分に足りないものを『所有』することによって、その”自己の存在の曖昧さ”を補い満たそうとしているのではないか?そうすれば、「他者」から認められ、この世に存在しても良いのか?という不安を払拭できると考えるのではないか?

 

 しかし、先ほども述べたように、物も人も常に移り変わるものである。自分自身も。

 だから、いくら物をたくさん『所有』しても、良好な対人関係を『所有』しても、『存在する不安』は払拭されない。

 

 BMWを購入できても次にはポルシェが欲しくなるかもしれない。ポルシェが手に入ったらフェラーリが欲しくなるかもしれない....。東大に入っても今度はハーバードに行きたくなるかもしれない。だいたい、今は東大に入っても就職浪人がわんさかいる時代。昔と比べて、大学のネームバリューでは世間は評価しない時代になっている。お金持ちのお婿さんに嫁いで玉の輿に乗っても、お婿さんと相性が悪かったら結婚生活は悲惨だ。

 

 つまり、人間は『所有』することでは『存在する不安』も払拭されないのだ。むしろ、『所有』することで苦しみが増えることは先のブログにも書いた通りだ。

 

 

 

では、どうしたらこの不確実で不安定な自己とうまく付き合えるようになるのか?

 

それには、「他者」に対する考え方を転換する必要がある。

 

 つまり、「他者」の眼=評価を意識するのではなく、「他者」のために自分が何ができるかを意識して生きてみることだ。

 

 僕たちは、生まれてこのかた、誰かかんかのおかげでここまで生きてこられた。もちろん、出会った「他者」の中には自分を傷つけたり嫌な思いをさせた者もいるだろう。でも、そういう人達も含めた「他者」がいなかったら、僕たちは人間として成長しなかっただろうし、この生きにくい世界でここまで生きながらえてはいないだろう。

「他者」は僕たちが存在するためには絶対不可欠な存在のだ。

 

 僕たちは「他者」によって生かされているのだ。

 

 例えば、僕が精神科医としていられるのは、患者さんが僕のクリニックに来てくださりそこで治療をするからだ。もし「他者」である患者さんが来てくれなかったら僕は精神科医ではない。だから、自宅でこうやっている時も僕は精神科医ではない。精神科医としての僕は、クリニックで患者さんの診療をするという”行為”によって初めて精神科医にさせてもらえるのだ。僕が精神科医になるわけではない。患者さんが僕を精神科医にするのだ。

 同じことは、他のすべてのことに言える。スーパーで働いている人は、スーパーに来てくださるお客さんがいてサービスを提供するから店員になるのだ。親もそうだ。子供がいておっぱいをねだる。その時、おっぱいをあげないでほったらかしにしていればそれは親ではない。親とは、子供の世話をすることによって初めて親になる。

 

 このように、僕たちが今この世に「存在できる」のは、すべて最初に「他者」の存在があるからだ。「他者」が僕たちを存在たらしめるのだ。

 

 だから、「他者」には感謝しなければならないし畏敬の念を持たなければならない。その一つの形が「礼儀作法」や「マナー」というものだろう。

 

 「他者」に感謝し畏敬の念を持ちながら生きること。自分を自分たらしめてくれていることへの恩返しとして、「他者」が喜んでくれたり気持ちよくなってくれることを願って接すること。

 

 それは、決して「他者」から良い評価を得るためではなく好かれるためでもない。すそういう生き方を心がけることによって。自分も気持ちよくなり、自分も満たされるのだ。

 

 こういう行為が基本にあって生きることができれば、『生きる不安』とも『存在する不安』ともうまく付き合えるようになるのではないかと思う。

 

 

 どんなにお金を持っていてもどんなにたくさんの友人がいても、人間はいつも孤独だ。満たされない。不安も消えない。

 なぜだろう?

 それは、『所有』というものが自己中心的なものだからだ。自分のためにあるものだからだ。

 

 人は、この世に生を受けてからたくさんの「他者」の手によって育てられ助けられ生きている。だから、その記憶は、自分では意識しない無意識のレベルでもちゃんと記憶の引き出しにしまわれているのではないか?だから、自分のためだけに生きていると、その引き出しの中身が気になり始めて、”後ろめたさ”という感情が出てくるのではないか?

 

 だから、僕たちが『生きる不安』や『存在する不安』と付き合っていくためには、「他者」の幸せを志向するような行為=行動が大切なのではないか?その行為が、自分の『不安』を少しでも軽くしてくれるのではないか...

 

そんなことを考えている。

 

 

 

 

 

 

明日も診察を一生懸命やろう                      2017/5/7

 

 

 

 

 

 

 

 

あの頃は....

 

 昭和30年代から40年代..あの、アメリカに追いつけ追い越せの高度経済成長時代は、日本人は働きに働いてたくさんの物を作った。

 

 

 日本は資源がなかったので、外国から輸入した資源を加工して製品にするのがうまかった。あの時代は、今よりも貧しかったけど、働けば働いた分だけ給料は上がり生活は豊かになっていった。つまり、努力すればその見返りとして物という形で返ってきた。

 たらいで洗っていた洗濯が自動洗濯機になり、白黒テレビがカラーテレビになり、お金が貯まると自動車を買ったり、マイホームを購入したり...どんどん生活が豊かになっていった。豊かさへの変化が目に見える形で。

 

 だから、当時は物を『所有』することが夢であり、『所有』の実現が目標だったのではないか?『所有』すること=やりがい・生きがいだったのではないかと思う。今以上に「努力が報われる」感がリアルだったからだろうか...当時は社会全体に活気があった。

 

 しかし、バブルが崩壊してリーマンショック以降、社会全体に活気がなくなったように感じる。なぜだろう?

 

 今はもう物に溢れてる。食べることにも困らない。ごく特別な場合を除けば、雨露をしのぐ場所もある。もう必要な物は大体揃う時代。物に関しては全く不自由しない。

 そういう社会だから、物を『所有』することは目標ではなくなったし生きがいでもなくなった。断捨離と言って物を捨てることでストレスを発散するような世の中だ。ずいぶん贅沢になったものだ。

 

 今の社会に元気がないのは、物質社会が飽和状態になり物を『所有』することに喜びを見出せなくなり、次は何に目標を見出したら良いかわからなくなっているからではないか?しかも、いくら働いても昔のように給料がどんどん上がっていくようなこともない。

 物を『所有』するだけでは幸せになれないということに気づき始めたということだ。

 

 

 物を『所有』することから格差が生まれ、それが宗教や民族の違いと合わさって世界中で戦争が起こっているのも、資本主義の矛盾がここへ来て一気に噴き出してきたのではないかと感じる(だからといって資本主義を否定するつもりはない)。

 

 いくら物を『所有』しても心は満たされない。

 

 では、今の僕たちが満たされるためには、何が必要なのだろうか...?

 

 

 「何で働くんですか?」

 

 日本人にこう尋ねると、たいていの答えは同じだろう。「住宅ローンを返すため」「子供の教育費を稼ぐため」「老後の資金を貯めるため」etc...

 

 こういう目的のために働いて働いて、わずかな休日では横になったりしてすぐに時間は過ぎ、また働く...。気づいたらもう定年。

 でも、わずかな退職金はすぐになくなり、だんだん減らされる年金では生活するのもやっと。ようやく時間ができても、レジャーに使えるお金が残っていない。最近、高齢者貧困なんて言葉が目につくが、働いても働いても人生の最後がこんな老後では元気になれないよ...。

 

 ヨーロッパの人たちに同じ質問をすると、「働くのは遊ぶお金を貯めるため」という答えが必ず返ってくるそうだ。「人生は楽しむためにある。人生は一回きりだから」と。

 ドイツ憲法には、「2週間連続で休暇を取らねばならない」という条項があるそうだ。でも、皆それに年休をつけて一ヶ月の長期休みを取るのが当たり前なのだそう。だから、リゾートビーチでゆったり寝転びながら、読書してるんだね。日本人はせいぜい1週間くらいの短いツアーで行くのが普通だから、毎日セコセコとスケジュールを「こなしてる」。休むという感じじゃない。同じ人間でも、こんなにも人生に対する考え方が違うのか...

 

 なんか、情けなくなっちゃうよ(涙)。

 

 日本人が皆こういう風になるのは難しいだろう。

 個人個人のレベルで、少しでも人生を楽しむようにしていかないとね...

 

 

 

 

 

木漏れ日に揺れる山吹                          2017/5/7

 

 

 

 

 

 

この国の政治は・・・

 

完全に「おバカ」になってます。

今までの内閣で最悪だと思います。

 

首相をはじめ閣僚や政治家たちは、国民に対して見え透いた嘘をつきながらその火消しに追われています。また、稲田防衛大臣等の失言。自民党議員の一連の不祥事。

これも、自公民の一局独裁政権が生んだ傲慢と怠惰によるものなのでしょう。

 

安倍首相は、今回の都議選の応援演説でも、政策的な話題に触れ、自民党に任せてもらえば大丈夫みたいなことを強調してますが、彼がいくら声高らかに訴えても、国民の心には響いてこないのではないでしょうか?

 

なぜなら、疑惑に対する国民の疑問に答えようとしないからです。

政治家に最も大切なのは信頼です。

見え透いた嘘を突き通して数の力に任せてもみ消そうとしたり、国民の意思を無視して議論が必要な(テロ防止法案のような)法案を強行採決してしまうような横暴なやり方は、国民の信頼を裏切る行為だからです。

 

森友学園や加計学園の問題も、国民にきちんと説明をすると言っておきながら、野党が求めている臨時国会召集も首相自らが拒否する。当然です。彼にとってみれば、追及されればヤバイからです。おそらく、ドロドロしたものがいろいろ出てくるのでしょう。

 

今の国会は与党が過半数を取っているので、疑惑が湧いても、「そんな事実はない」「記憶にございません」などと否定し続けていれば何とかなると思っているのでしょう。トカゲの尻尾切りをすれば、何とかおさまると思っているのでしょう。

 

こんな、傲慢で横暴な政治は、絶対に許してはいけません。

今こそ、国民一人一人の良識が問われています。

政治を変えるのは、結局は国民なのです。

 

今日は都議会選挙の開票日ですが、まずは、都議会から自公民の一局独裁政治をやめさせていきたいものです。

 

 

 

 

 

どんよりとした梅雨空は今の政治そのもの          2017/7/2

 

 

 

 

 

 

 

 

また...

 

雨が降っています。

 

 もう一週間以上前に「梅雨明け宣言」が出たのにもかかわらず、ここのところ梅雨のような毎日です。梅雨明け前より降ってる気がします。

 

 このようにジメジメした日が続くと、洗濯物も乾かないし、心もジメジメしてしまいますね。クリニックを訪れる患者さんにも、風邪をひいたりお腹を壊したりといった体調不良を訴える方が例年よりも多い気がします。

 僕自身も、毎晩の蒸し暑さで、ここのところ、なかなか熟睡できません。

 

 世の中は世の中で、良いニュースはありませんね。

 政治家や官僚たちは、特権階級を悪用して庶民感覚とはかけ離れたことをやっていながら、それを追及されると平気で嘘をついて逃げています。

 以前にも書いたように、森友学園、加計学園の問題、南スーダンに関する防衛省の問題etc... 様々な疑惑が出ていますね。

 

 そして、それらの疑惑について首相をはじめ、稲田防衛大臣やその他関係者が「きちんとした説明責任を果たしたい」と言って証言をしましたが、その答弁を聞いていて、どれだけの人たちが納得できたでしょうか?

 

 なぜこうも、証言している人たちの答弁が180度食い違うのか?

 それは、誰かが嘘をついているからです。こんなこと、小学生だってわかります。

 

 それに、今の内閣の閣僚たちは、みっともないと思いませんか?

 

 こういう問題には触れてほしくないから、必死になって火消しに回ったり、もう説明は尽くされたと言って逃げる。

 どこが説明尽くされたのでしょうか?

 あまりにも国民を馬鹿にしているし、国民をナメています。

 国会議員の過半数をとってるから、少しくらい何をやっても大丈夫だろうと思ってる。形だけ説明の場を作ればなんとかなるだろうと思ってる。だから、このような傲慢で横暴な政治がまかり通っているのです。

 

 一方で、野党は野党で情けない。

 自公民がこんなに体たらくな政治をしているのに、それに対抗できる政党が無い!民進党も内部でゴタゴタしているし。こんな大事な時にゴタゴタしてる場合じゃないでしょ?政党のいろいろは別として、一番まともで筋が通ったことを言ってるのは共産党です(だからと言って、僕は共産党支持派ではありませんが)。

 

 今こそ、党の利益を優先させるのではなく、超党派的な発想で国民の声が反映される政治をやってくれる政治家が出てきてほしい。

 

 

 

 核の問題にしてもおかしいですよね?この国は!!

 

 世界で唯一の被爆国でありながら、国連の核禁止条約交渉に参加しない。福島第一原発事故の問題も全く解決していないのに原発を推進しようとする....。おかしくない?

 この間、福島原発事故で生じたプルトニウムの処理には数十万年から百万年ほどかかるとニュースで報道していました。数十万年〜百万年ですよ!しかも、日本には何基の原発があるのか?その処理にも熾烈を極めるのに原発を推進するなんて正気の沙汰ではありません。

 

 日本は、戦争でも原発でも本当にたくさんの人々が犠牲になり、未だにその苦しみの中におられる人もたくさんいるというのに!

 一体、今の政治家や官僚の頭はどうなってるのか!?

 

        ホントに、『何考えてんの????』

 

 

 それは、日本が世界に対して堂々と表現できるプリンシプル(主義・信条)を持っていないということです。アメリカを始めとする周囲の国の顔色を伺って、自国の信念を大事にしないからです。

 

 本来は、日本国民は昔から優しい民族です。融和を重んじ、友好的で良心的な民族です。礼儀正しくておもてなしを大事にする民族です。闘いよりも話し合いを大事にし、互いに相手の気持ちを大事にしながら、気遣いながら生きてきた民族です。聖徳太子が制定した「十七条の憲法」にも、『和をもって尊しとなす』とあるではありませんか?

 

 

 でも、今の政治家たちの思想や行動を見ていると、私たち日本人が古代から大切にしてきた国民性とはかけ離れたことをやっているとしか思えません。

 

 ですから、今の日本の政治のあり方を見ていると、僕は、一人の日本国民としてとても恥ずかしい。こんな国に住んでいるのが恥ずかしい。そう感じます。

 

 

 

 今の日本は、政治も、経済も、社会も... まるで梅雨のように暗い...

 

 

 まだまだ、この「日本の梅雨」は長引きそうです。

 

 

 

 

 

もういい加減、お日様の光がほしい              2017/7/30

 

 

 

 

 

 

 

自分勝手なクルマ考*1〜買える買えないは別として〜

 

僕は、乗り物が好きです。

 

 小さい頃にはまったのは電車でした。両親はクルマの免許を持っていなかったから、移動手段はもっぱら電車か自転車でした。だから、毎日のように駅に行っては、電車ばかり見てました。

 

 でも、アメリカから入ってくる映画や乗り物図鑑などで色々な車があるのを知りました。中でも、ランボルギーニのカウンタックとかフェラーリのようなスーパーカーには憧れました。あの未来的なデザインに感動したのです。また、コンバットというアメリカの戦争ドラマに出てくるジープ(JEEP)にもすごく魅力を感じました。どんな悪条件でも走破できる性能に感動したものです。ミニカーは持っていましたし、プラモデルでもよく作りました。

 

 大人になってから、東京に住んでいた時は車がなくても生活できたので免許も取りませんでしたが、信州で生活するようになってから必要に迫られて初めて車を持ちました。それからですかね。本格的に車が好きになったのは。

 

 僕は、車に求めるものはたくさんありますが、まず何よりもデザインを重視します。どんなに性能が良くて速い車でも、デザインが良くない車には乗りたくありません。性能よりもまずデザインが先に来ます。

 

 ある人が、「車って人間みたいね。一つ一つ顔があって、それを見ているだけでも楽しい」とおっしゃっていたけど、僕もその通りだと思います。車には顔があり個性がある。人間と同じです。ですから、車は乗っている人の人間性を表します。男性と女性では車に対する考え方や価値観は違うと思いますが、少なくとも男性にとって車は自己主張の手段の一つだと思います。

 

 

 従来、(買えるかどうかは別として)デザインが良い車はほとんど外国車だったですね。それは、日本の車の歴史が浅いということも関係しているのかもしれませんが、今まで日本車で一目惚れしたのはほんの数台でした。今はありませんが、日産の「シルビア」と、トヨタの「ソアラ」には惹かれました。あと、ホンダは昔から垢抜けたデザインの車を作ってきましたね。最近では、「アテンザ」や「アクセラ」などのマツダがとても良いデザインの車作りをしていると思います。日本もようやく、性能面だけではなくデザインにも力を入れるようになってきた感があります。よく取り上げられる日本が生んだスーパーカーのGT−R(日産)は好きではありません。どうも、あの「いかにも」というガンダム的なデザインは、乗れたとしてもどこか恥ずかしい感じがしてしまいます。

 

 今僕はJeepの「ラングラー」に乗ってますが、カクカクした、いかにもミリタリー色が濃いスタイルが気に入っています。

 

 世界に目を向けると、魅力的なデザインの車はたくさんあります。

 僕が最も惹かれるのは、007のジェームスボンドが乗っていることで有名な、アストンマーチン(イギリス)の「DB9」。流線型でシンプルなとてもスタイリッシュな車です。現代的な要素と古典的な要素を併せ持っているデザインにも惹かれます。ジャガー(イギリス)の「Fタイプクーペ」も美しい。この車は、昔レースで活躍した「Eタイプ」というレースカーの後継という位置付けでジャガーが数十年ぶりに世に出したスポーツカーです。

 マクラーレン(イギリス)のP1も斬新なデザインでいいな。この車は、超がつくスーパーカーですが、乗り心地もすごく良いそうです。アウディ(ドイツ)の「R8」や「TTクーペ」はすっきりとしたインダストリアルデザインで造形的には好きです。

 ポルシェ(ドイツ)は、よく「911カレラ」が象徴的存在として言われるけど、個人的には「ケイマン」のデザインの方が好きです。「911カレラ」のリアスタイルは好きですが、あのカエルの目のようなヘッドライトが好きになれない。「ケイマン」の方がデザインとしてはスポーツカー的だと感じます。

 スパイカー・カーズ(オランダ)の「C8」は、レトロモダンなデザインでとても魅力的な車です。外見も特徴的ですが、内装がすごく凝ってて、スイッチの一つ一つがジュエリーのようで、見ているだけでうっとりしてしまいます。

 フォード(アメリカ)の「マスタング」は、獣を感じさせる顔つきで好きです。純粋にカッコイイ!って思います。シボレー(アメリカ)の「コルベット」やバックトウーザフューチャーという映画に出てきた「カマロ」もかっこいい。アメリカは、昔からかっこいい車を作るのがうまい国です。

 

 日常的な車ではないですが、ランボルギーニ(イタリア)の「ウラカン」、「アヴェンタドール」もかっこいい。獲物を狙う野獣のような顔つきと複雑な直線で構成されたSF的なデザインはランボルギーニでしか作れない世界。まさに、スーパーカーの象徴的存在です。そのライバルとしてよく取り上げられるフェラーリ(イタリア)も曲線美が綺麗とは思うけど、僕はいまひとつ心が揺さぶられない。

 

 やはり、僕はスポーツカーが好きです。あとはミリタリー色の強い車。人があまり乗っていない車でデザインが美しい車に惹かれます。

 だから、ベンツ、BMW、アウディといった最近よく見かける?車には興味はありません。それらのメーカーには、市販車をモディファイしたベンツのAMG、BMWのMクラス、アウディのSやRSといったシリーズもありますが、クーペと言っても所詮セダンを2ドアにして屋根を少し寝かせたデザインにしか過ぎないので、あまり魅力を感じません。特に、あの仰々しいマークを付けたベンツは嫌いです(ベンツに乗られてる方、ゴメンなさい)。

 

 ワゴンやセダンタイプの車には全く興味はありません。デザイン的に僕の嗜好には合わないからです(これらのタイプの車に乗ってる方、ゴメンなさい)。確かに、ファミリーで子供が小さいとか一度にたくさん乗れるとか物が沢山積めるとか便利ですが...  僕は、子供達が小さくてもJeepに乗ってました。ファミリーファミリーしてるデザインは嫌なんです。

 ファミリーにとっての利便性よりも自分の嗜好を優先させてしまうんです。それくらい、車にはこだわってきました。なにぶん、先ほども言ったように、車は自分を主張する存在ですから。

 

 車って奥が深いです。

 今回はデザインについて勝手なことを書きました。でも、まだまだ永遠に話が終わらないくらい...車への想いは尽きないのです。

 

 それはまた後日に...。

 

 

 

 

 

 

 スピードと美しい機械...それは男の子の憧れ         2017/7/30

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また雨かあ....

 

ここのところ、いったいどうなってるんでしょうね。

毎日夜になると雨が降ります。

さかのぼれば、梅雨明け宣言して数日晴れたと思ったけど、それから今までず〜っとすっきり晴れた日の記憶がない...

毎日のように雨が降ってジメジメとした日が続いてます。

 

そろそろ、この天気に頭にきています。

天気に怒ったってどうしようもないことくらいわかっているのですが、腹が立ちます。本来ならば、今の時期は、日中はすっきり晴れて暑くても、夜はすっきりひんやりとした空気で気持ちが良いものですが。

 

今、信州はどこも他県ナンバーの車ばかりで観光客がたくさん来ているようです。でも、せっかくの旅行がこんな雨模様じゃ気の毒ですね。

 

今年は、太平洋高気圧(夏の高気圧)の勢力が弱くて日本列島を覆うまでに至らず、シベリア大陸からの高気圧(冬の高気圧)との間に日本列島が位置する形になっているため前線ができやすいそうです。そのため雨が多いのです。

 

お盆が過ぎると、信州はもう秋。

このまま、秋雨前線に突入してしまうのかな....

 

寂しい限りです。

 

 

 

 

雨が恨めしい                          2017/8/14

 

 

 

 

 

 

 

やりました!!

 

サッカーワールドカップアジア最終予選。

埼玉スタジアムでオーストラリアとの大一番。

 

今日勝てばワールドカップ出場決定。引き分けか負ければ、次からアウェーの試合となり、出場がかなり厳しくなる状況。

しかも、オーストラリアは強豪で、今までワールドカップ予選では一度も勝ったことがない相手。

 

でも、今日の日本代表は、皆、冷静で士気が高かった。

攻撃を絶ち、オーストラリアのペースに持ち込ませませんでした。

結果は、2-0で日本の勝利!!

 

完勝でした!

 

 

....ようやくホッとしました!

 

ワールドカップ予選は、大番狂わせもある何が起こるかわからないハイレベルな闘い。しかも、日本は初戦を黒星でのスタートだったのです。

 

でも、その後よく粘って、最後は強豪ぞろいと言われた組での一位通過。

 

日本の勝利が決まった瞬間、日本中の人たちが一緒になって飛び上がって喜んだ!一緒になって感動した!

 

こうやって、一つのことをみんなで感動できるというのは本当にいいですね!

 

 

 

....今日は、気持ちよく眠れそうです。

 

 

 

 

外はもう秋                           2017/8/31

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秋の気配を感じながら

 

今年の夏は一体どこに行ってしまったのか?

 

梅雨明け宣言をするまでは空梅雨でひどい暑さだったのに、明けたと思ったら今度は毎日梅雨のような雨続き。蒸し暑くて寝苦しい日々が続いた。窓を少し開けて扇風機を回してもなかなか寝付けず、おかげで寝不足の毎日。

でも、お盆が明けると、夏が戻ったかな?という晴れの日が数日あったが、それも束の間、最近は朝晩長袖が必要なほど....。この激しい天候の変化に体がついていかない。現に、クリニックにいらっしゃっている患者様にも風邪をひいたり胃腸炎になったりしている人が多い。

 

これも、温暖化のせいか?

僕たち人間が自然を破壊してきたせいなのか?

 

これからも、何十年、何百年に1回という天候はあったとしても、穏やかな天候に戻る確率は低いだろう。

 

それに加え、アジアを含めたアジア情勢、世界情勢は混乱の度合いを増している。今日も北朝鮮が核実験を強行したというニュースが飛び込んできた。世界中で起きている無差別なテロも止むことはなさそうだ。

 

 

今、僕たちを取り巻く状況は複雑化し、混沌としてきている。

何が起きてもおかしくない....

僕たちはそんな不安の中に置かれている。

 

 

 

このような状況や人生の様々な問題に直面し、どうしたら少しでも平穏な境地に至れるのか?と考えてきた。

もちろん、それに対して、依然、結論は出ていない。

 

 

 

でも、最近、ある考え方に至ってから、今までよりも少し気持ちが落ち着くようになった。

 

 

「命を預けよう・・・」

 

’生きよう’と考えると、どうしても「自力で」とか「頑張って」というプレッシャーがかかる。

そうすると生きるのが辛くなり不安になる。

 

でも、「自分の命を預けよう(委ねよう)」と考えた時、少し開放されたのだ。

 

命を預ける・・・

 

こう言うと、当然「誰に(命を預けるのか)?」という問いが来るだろう。

 

それは僕にもわからない。

 

ただ少なくとも言えることは、命を預ける対象が僕と同じ人間ではないということだ。

では、何に預けるのか?

神か?仏か....?

それは僕にもはっきりしない。

 

あえて述べるとすれば、僕たちの人知を超えた『何か』...

僕たちをこの世に生じさせた『縁』といったようなもの...

少なくともそれは、僕たちには説明できない形のないもの...

 

僕にとって、形があるかないかはあまり重要ではない。

 

形があってもなくても、僕の命を『預けられている=委ねられている』という「感覚」...それが大事なのだ。

 

この「感覚」を持つようになってから、以前のような漠然とした不安や恐怖が少し軽くなった気がする。

 

人は誰でも「死」への不安や恐怖がある。

死にたくはないし死ぬのは怖い。できればいつまでも健康で長生きしたい。

 

しかし、その生や健康は、僕たちの思い通りになるものなのだろうか?

きっとならない。

 

その、自分たちの力ではコントロールできない「生」や「死」を自分の力でコントロールできると思っていること自体、傲慢ではないか?

また、コントロールできないものをコントロールしようと考えるところに無理があり、そこから不安や恐怖が生じてくるのではないか?

 

もともと、自分の「生」や「死」も含めたすべての人生の事象は自分ではコントロールできない。それが自然ではないか?

 

...ならば、もう自分でどうにかしようとは思わない。むしろ何かに委ねる。

 

これは、決して責任転嫁ではない。

傲慢さや執着を捨て、自分の力が非力なことを認め受け入れた上で、力まずにありのままの自分で「生かせてもらう」...

 

命が続く限り生かせてもらい、自分好きなことや与えられた使命を最後まで全うする...

 

それが大事だと考えてから...いや、違う

...そう「感じる」ことに努めるようになってから少し楽になった。

 

これは、「考える」ことではなく「感じる」こと...

 

その点は、今回の僕の体験にとって大事だと思う。

 

 

 

 

 

 

秋空にコオロギ                      2017/9/3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

申し訳なさそうに....

 

入道雲が、山の稜線からちょこんと顔を覗かせている。

’まだ出させてもらってもいいですか??’って表情をして。

 

その上方には、夕焼けに染まった真っ赤なスジ雲が、俺たちの季節だぞと言わんばかりに、何層にもわたってのびやかに広がっている。

 

 

今日は、久しぶりに気持ちよく晴れた。

日中は汗ばむくらい暑かったが、夕方からは高原特有のすっきりとした冷気が八ヶ岳の麓全体を覆う。

この時期は、一年の中でも最も気持ちの良い空気感を提供してくれる。

ほんのわずかな期間なのだが。

 

そう...

この気持ちの良い時期は一瞬だ。

やがて、急速に寒い冬へと変わっていく....

 

一年の約半分が寒い冬。

だからこそ、秋のほんの一瞬の気持ち良さが輝かしく感じられる。

 

 

この秋のままでいてほしい....

時が止まってほしい....

 

 

 

 

稲田は黄金色                        2017/9/14

 

 

 

 

 

 

 

国会の私物化

 

安倍首相は、今日衆議院を解散した。

しかも、国会開催初日にです。

何も審議せずに、皆で万歳三唱したとか。

 

バッカじゃない?

 

滑稽としか言いようがない。

一体、今の国会議員は何やってんだ!!

 

独裁暴走する安倍首相についている取り巻きたちも、安倍さんの擁護することばかり見回ってて、どこか哀れに見える。

 

 

野党が弱体化し、北朝鮮の脅威が増している中、ここで解散総選挙に持ち込めば森友/加計学園問題から逃れられ、また自公民の独裁政権を維持できるだろうとでも踏んだのでしょうか?

 

でも、もしそうだとしたら、国会を完全に私物化しており、国民をなめているとしか思えない。

 

国民はちゃんと見てますよ、安倍さん。

国民をなめちゃいけません。

そのうちに、きついしっぺ返しが来ますよ。必ず。

 

それにしても、単独政権が長い間居座ると、必ずおごりが出てきますね。

過去の歴史を見てもよくわかります。

 

今の安倍内閣のやり方を見ていると、奢って滅亡した平家を見ているようです。

 

『奢れる者ひさしからず...』

 

 

安倍さんは、今回の衆院選挙を「国難対策」とお得意のネーミングで表現しましたが、安倍さん、悪いけど、あなた自身が「国難」ですよ。

あなたが仰ってる公約は、”逃亡解散”のための言い訳としか思えない。

 

そろそろ、この方にはサヨナラしていただく時期が迫っている気がします。

 

 

 

 

秋は人恋しい                      2017/9/28

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スパゲティ

 

昼に、ファミマのスパゲティを食べた。

できるだけたくさん入ってる大盛りのやつ。

 

パーッケージの蓋を開けると、そこにはグルグルくにゃくにゃ...

ミートソースの下には、混沌とした麺がたっぷり盛られている。

 

まず反射的に、「このソースが飛び散らないようにして食べるにはどうすればいいか?」と感じた。

その次に、また反射的に、西洋人が首の下から、まるで超特大のよだれかけのような大きな白いナプキンを垂れ下げて食事をしている光景が頭に浮かんだ。

 

そもそも、僕はいつの頃からか、食べ物の具が服につくのが嫌だった。

だから、僕にとっては、スパゲティは大好きなんだけれども、それをいかに美しく綺麗に食べるかは重要な問題なのだ。

 

コンビニで買う時に「フォークにしますか?お箸にしますか?』と聞かれる。さすが日本。スペゲティだってお箸で食べる人がいる文化なのだ。

でも僕はその時、見栄だかなんだかわからないけど「フォークにしてください!」と言ってしまったのだ。

’スパゲティは箸で食べるものではない、フォークで食べるものなのだ..’という西洋人の言葉が耳元で囁いたからか...

 

 

しかし、いざ食べようと、蓋を開けたスパゲティを目の前にして、「しまった...」と思った。

フォークより箸にしておけばよかった...

フォークでは食べづらい...そもそも日本人だから、麺のような長いものは箸の方が食べやすいのに...と。

 早速、うちの箸に切り替えて食べ始めた。

 

箸でも、たっぷりかかってるソースが飛び散らないようにスペゲティを食べるのはなかなか難しい。至難の技である。

 

まず、自制心が必要になる。

お腹は空いている。だから早く食べたい。できることなら、なりふり構わず食べたい...

でも、そんなことしたら、ありとあらゆる方向にソーソが飛び散り服にも顔にも付くだろう...

 

焦るな...慌てるな...

 

こんなこと考えてる自分が馬鹿みたいだが、ソースがかかっている麺をそっと持ち上げて、麺の切れ目が出てくるまで持ち上げ続ける。

麺が長くてなかなか切れ目が出てこない...

やっと麺が切れたと思ったら、中腰で立ち上がっている状態だった。

そこからまたゆっくり麺を元の器におろし、麺を回し塊にして口に運んだ。

 

何やってんだろう...???

スパゲティを一口食べるだけなのにこんな手間をかけるなんて。

自分おバカさ加減に思わず笑ってしまった。

と同時に、どうせなら徹底してこの食事を楽しんでやろうという気になった。

『スパゲッティのソースを絶対に周囲に飛び散らせないで食べる術』

 

レストランでよく、スプーンの上でフォークに絡ませた麺をクルクル回して食べている人を見かける。前から「キザだな」なんて心の中では思っていたが、今スパゲッティを目の前にしていると、その方法もあながち悪くないなと思った。

 

さあ、本業に入ろう...

こんなことしてもたついてるうちに、お腹はとうに空いている。

食べなくっちゃ。

 

もう一度スパゲティの器に目を落とす。

やはり、そこには無秩序に存在する麺がドンと居座ってる。

さっき一回口にしたから、さらにその無秩序さは複雑さを増している....

 

 

 

そもそも...

この混沌とした無秩序な世界に支配されている麺を、綺麗に(秩序化して)食べようという考え自体が間違っていないか?

その考え方自体が傲慢じゃないか?

スパゲティに失礼じゃないか?

 

混沌としているのなら、食べ方も混沌として食べればいいじゃないか?

混沌としたものを自分の思い通りにしようとするから面倒になるのだ。

 

 

 

人の人生もそうかもしれない。

 

混沌として考えても解決しないような問題を、ああでもないこうでもないと悩む。それ自体が無意味なのかもしれない。

せっかくの大切な時間を無駄にしてしまうのかもしれない。

 

今の僕だってそうだ。

せっかくの大好きなスパゲティなのに...

食べることを楽しめばいいのに、食べ方を(しかも自分勝手なルールを作った食べ方を)考えてばかりいて楽しんでない。味わってない。

こんなのバカバカしい!

 

ええい!!

 

もうどうでもよくなった。

 

何も考えず食べよう。

服や顔にソースが飛び散ったら洗えばいいじゃないか!

 

僕は、がむしゃらにスパゲティにかぶりついた。

 

 

 

子供の頃に食べたスパゲッティの懐かしい味がした。

 

 

 

 

 

 

外は雨                           2017/10/15

 

 

 

 

 

 

 

 

もやもや...

 

今日はクリスマスイブ。

 

なのに、心はどこか、もやもや。

 

 

 先の衆議院選挙で、’なぜか’、自公民が大勝して首相も変わらず、相変わらずの独裁体制。社会保障を充実させるという公約を掲げておきながら、来年度の国家予算を見ると、それは申し訳なさ程度で軍事費の増強が目立つ。なんと、日本からも攻撃可能なミサイルまで高いお金を出して買うという。しかも全部国民の税金でだ。国民の税金が、国民が納得いかないレベルで勝手に使われてしまう。さらに、軍事化を正当化するために、自衛隊の存在を是認する憲法改正の動きも活発化している。国民の意見を聴かないで勝手にやってしまう彼らのいつものやり方で。

以前から恐れていたことだが、今日本では着実に軍事化が進んでいる。

 

 あの、広島、長崎で非常に多くの市民が経験した苦しく辛い体験は、首相をはじめ政治家の頭にはないのだろうか?

 

 今年も、震災や豪雨といった自然災害で多くの方々が命を落とされたり怪我をされたり家や土地を失ったりされた。未だに仮設住宅に住んでおられる方もいらっしゃるし、損壊してしまって自宅には入れない状態ゆえに納屋やビニールハウスで生活されている方も少なくないと聞く。

そういう方々のことに、もっとお金を使ってあげられないのか?

現地を訪ねて、慰めの言葉をかけてあげられないのか?

 

 昨日、天皇誕生日に合わせて、天皇陛下が、そのような震災に見舞われた方々に対して心配されているお気持ちとご苦労に対するねぎらい・慰めのお言葉を述べられていたが、人の上に立つものは、そういう民を想う気持ちが必要なのではないか?

 

 安倍総理大臣の言動や態度からは、天皇陛下のような思いやりや優しさは感じられない。

 

 東北の震災の復興も、依然、思うように進んでいない。市民生活もそうだが、福島第一原発の核燃料処理の問題もある。広島、長崎での原爆に加え、原発、さらには北朝鮮の核開発など、今の日本は、「核」の脅威にさらされており、「核」の問題は、まさに現在進行形である。

 このような理由から、日本は、世界の中でも率先して「核」廃絶に向けてリーダーシップをとらなければならないはずなのに、核禁止条約会議に参加しようとしない。「いったい、何考えてんだ!」と怒りを覚える。アメリカに対する配慮だと思うが、こんな態度では、日本が世界から信頼されるはずがない。筋が通っていないからだ。

 

 信頼といえば、今年信頼を失う事件が多々あった。

 首相や首相夫人が関与したのではいか?とされている、加計学園、森友学園の問題。籠池理事長と財務省のやり取りを録音したテープが残っているにもかかわらず、首相は「やっておりません」の一点張り。当事者の官僚は、「そういうやり取りは確かにあったが、これは値段交渉ではない」などと、小学生でもわかるような嘘を述べ(しかも国会で)逃げようとしている。

 首相は、国民に丁寧にきちんと説明すると何度も言ったが、国会の答弁を聞く限りでは「私はやっていない。信じてください」を繰り返すのみ。少し例えが辛辣すぎるかもしれないが、泥棒さん自身に「やりましたか?」と聞いて、「やりました」と説明する泥棒がいるだろうか?野党の追及も甘すぎる。

 

 この国の政治を司っているトップがこんなだから、この国は世も末である。

 今でも不思議なのだが、こんな筋が通らない言動・態度を示している政治家たちを...こんなに軍事化という危ない方向に持って行こうとしている政治家たちを、どうして国民は選んでしまったのか?

 世論調査では、「他に適当な党がないから」とか「無難だから」といった理由が上位を占める。しかも、分析によると、そのような理由で自公民を選んでいる人たちは、浮動層と言われる直前まで決まった政党を持たない若者たちと聞く。一方では、これも世論調査からだが、安倍首相に対しては「信頼できない」がトップに来る。

 つまり、首相は信頼できないが、野党は任せるほどしっかりしていないので仕方なく自公民を選ぶということなのだろう。

 

 

 また、経済界でも信頼を失う不祥事がいくつもあった。日産自動車などが検査資格を持たない社員に検査をさせていた...神戸製鋼や東レが品質基準に満たない製品を認識していながら出荷していた...リニアモーターカーの工事を受注した大林組をはじめとするスーパーゼネコン4社の談合していた...。世界的にも日本を代表する大企業の一連の不祥事。これは氷山の一角なのだろうか?

 こんなことをやっていたら、日本のものづくり産業にも大きな影響が出るだろう。

 

 

情けない...

そう思う。

 

 いつから、日本はこんな国になってしまったのか?

 

筋を通すという理念がない。

正義という矜持がない。

もともと、武士という気高い文化を有した国だったのに。

 

 

 

 今の若い世代たちにも不安がある。

 会社でミスをして上司に叱られただけで、すぐに休んだり辞めてしまう。しかも相手のせいにして。そんな新卒組が増えていて各企業の人事課が困っているという記事が新聞に載っていた。

 こういう若者たちは、幼少期から、叱られたり厳しい状況や苦難を乗り越えた経験が乏しい人たちだ。だからストレスに対して極めて弱い。言い換えれば、生きていくためのサバイバル能力を持ち合わせていない。だから、嫌なことがあったり辛いことにぶつかると極力避けようとする。つまり、逃げるわけだ。自分が傷つきたくないから。傷つくのが怖いから。

 対人関係でも、傷つくのが怖いから適当で浅い関係で終わってしまう。しかし、一方では他人の目を気にするレベルは尋常じゃない。自分から積極的に仲間を作ろうとしないくせに、人からは嫌われたくない好かれたいという愛情欲求は人一倍強い。つまり、人は怖いが愛して欲しいというわけだ。

 だから、いつも人の目を気にして生きている。人と積極的に関わるのが怖いからSNSが流行る。そういう顔が見えない場所での浅薄で怪しい関係。それが今の若い世代の対人関係だ。

 本当は、傷ついても飛び込んでいかなければ本当の信頼関係は生まれないのにそれが怖い。こんなことでは、一生浅い関係で終わってしまう。だから、常に孤独なのだ。

 

 こういう若者たちを作り出したのは、家庭、学校、社会だと思う。幼少期から、きちんとしたマナーを身につけさせず、やってはいけないことをしても叱らず、人とどうやって関わればいいかという術を教えなかった。

 

 

 若くてこれからこの国を作っていかなければならない若者たちが、このように極めて保守的で弱く「無難」を求める。だから、先述したように自公民に勝たせてしまうのだ。

 

 「無難」と「平和」とは違う。

 「無難」には、どこか諦めのような、なあなあのような、退廃的な響きが宿る。

 

 こんな状況では、この国は変わらないだろう。我々国民が大切に守ってきた平和憲法は、自公民の独裁的な政治家たちによって歪められ、自衛隊は容認され、軍事装備は専守防衛の名の下に増強され、徐々に軍事化に進んでいくだろう。

 

 

 

 

 世界に目を向ければ、北朝鮮、行っちゃってるアメリカ。両国を見てると子供の意地の張り合い。バカみたい。

 あのトランプ大統領は、すべての国が、信頼し合い、譲り合い、連携し合い、思い合っていかなければ世界平和が立ち行かないことをわかっているようには思えない。むしろ、世界を混乱させているようにしか見えない。

 

 いまだに、資本主義が支配し、そこで儲けた「お金持ち」の国がそうでない大半の国を牛耳る状況が続いている。宗教や民族による紛争やテロが世界中で起きているが、その根底にあるのは、結局は、経済格差=貧富の差ではないか?

 

 太古の昔から、人類は「金」を目当てに争いを続けてきた。

 権力を持つということは「金」を持つということだから。

 

 それによって、豊かだった自然を破壊し、温暖化や異常気象という形で、今我々に跳ね返ってきている。異常気象や自然災害がそれだ。

 

 

 

 人間という種のおごりが、今、この地球という天体をダメにしている。

 

 人間以外の生物たちに申し訳が立たない。

 

 

 

 だから、もやもやしている。

 

 すごく、もやもやしている。

 

 

 

 

 

 

X'masくらいは穏やかに...                                  2017/12/24

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年もありがとうございました

 

今年もあと30分ほどで終わろうとしている。

 

外は、うっすら雪化粧。

 

 子供の頃は、大掃除をしたあと、紅白歌合戦を家族みんなで観るのが恒例行事だった。そのあとの「ゆく年くる年」は、子供ながらに荘厳な思いで眺めたものだ。

 でも、年を重ねるごとに、年が変わるドキドキ感や新鮮な感覚を感じなくなってきた。その変化に寂しい感じもするが。

 

 

今年も、たくさんの方々にお世話になりました。

 

その、すべての方々に、こころから感謝申し上げます。

そして、また、来年もよろしくお願いいたします。

 

 

すべての皆様にとって、良い年となりますように。

 

 

 

 

 

大晦日に                        2017/12/31

 

 

 

 

 

 

 

哲学がない国、日本  〜年初にあたり〜

明けまして、おめでとうございます。

本年も、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

2018年(平成30年)が始まった。

 

でも....どこか落ち着かない。

安心した心持ちで新年を迎えられないのだ。

 

先の衆院選で大勝した自民党は、憲法改正に躍起になっている。

おそらく、今年中に何らかの改正案が具体化してくるだろう。

 

 はっきり言って、首相をはじめ自公民が考えているのは、今以上に軍国化することだ。その先鞭として、憲法9条に自衛隊の存在を明確化しようとしている。それを足がかりに、自衛隊の裁量を単なる「自衛」だけではなく、専守防衛の名の下に限りなく「攻撃可能な組織」として「軍隊化」していくのだろう。

 平和主義を掲げてきたこの国は、今確実に軍国化に向かっている。

 

 

 あんなに、戦争という行為で多くの人々が亡くなり、苦しみ、辛い経験をしたのにもかかわらず。

 世界で唯一の被爆国としても、『平和主義』を主張し続けていく役割をこれからも担っていかなければならないのに。

 

 

 北朝鮮のミサイルが脅威だから軍事力増強が必要...といった政府のプロパガンダに惑わされてはいけない。そんなの詭弁だ。ミサイルに対してこちらもミサイルで対したら、どちらの国も滅亡することくらいは誰でも容易に想像がつくだろう。

 

 

 そもそも、『憲法9条』とは、『平和主義』を掲げてきた日本人の’精神性’のようなものではなかったか?それは、「一切の武器を持たないで平和を保つ」という基本的な考え方で基本にあったはずだ。それは、武器を持ってしまったら必ず戦争が始まるし、武器では平和を手に入れることはできないという先輩達の経験に基づいた知恵であり哲学ではなかったか?

 

 少なくとも、僕が子供の頃は、『憲法9条』が掲げるそのような『平和主義』はカッコ良く写ったし、今までずっと、僕たち日本国民が世界の様々な国々と堂々と自信を持って渡り合える’信念(精神性)’のようなものだと感じてきた。それくらい、心の中にもしっかりと根付いている考え方なのだ。

 だから、『憲法9条』を変えるということは、僕の中では、日本人の信念を変えるということ...強いては、自分自身の信念を変えられてしまうということなのだ。それは、僕自身にとってもとんでもないことなのだ。

 

 

 

 今の日本には『哲学』がないと思う。

 政治家にも官僚にも企業人にも国民にも。どこか、場当たり的にやりくりしているようにしか見えない。

 

 この国がこれからどういう方向に向かっていけば良いのか?

 この国は世界の中でどのような役割を担わなければならないのか?

 そのためにはどのような考え方が必要なのか?

 

 この考え方=『哲学(信念、精神性)』.....それが今の日本には無いと感じるのだ。アメリカを中心に周囲の国の顔色ばかり伺って、自分の考え方がゆらゆら揺らいでいる。例えば、核兵器を否定しているにもかかわらず、核禁止条約の会議に参加しないような政府の態度がその一例だ。

 今の日本は、まるで、周囲の評判ばかりを気にしながらビクビクして生きている思春期の若者のような神経症的な傾向が強いように見える。

 

 

 『国の哲学』は『国民の哲学』だ。国民が『哲学』を作るのだ。でも、今の日本では、国民が今の政治を変えてまで、先達が大切にしてきた『哲学』を守ろうとしていないように見える。今まで守ってきた平和憲法としての『憲法9条』を変えてしまったら、これから日本人は何を支えに世界の中で存在していくのだろうか?日本が日本たる意味(存在意義)をどこに求めれば良いのだ?

 

 

 政治家や官僚たちがおかしいなら、国民ひとりひとりが変えるしかない。個人の力は微弱だけど、それが集まれば大きな力になる。

 結局、国を変えるのは政治家でもなければ官僚でもない。国民なのだ。

 

 

 

 こんなことを考え感じているので、年初から不安で落ち着かないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

妙に富士山が美しい                       2017/1/1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、実践していること

 

* 先のことを考えない。過去のことを思わない。

 「一寸先は闇」ということわざがあるように、将来どうなるかなんて、

 どんなに考えても答えは出てこない。僕たちは預言者ではないのだから。

  むしろ、「先のことを考える→どうなるかわからない→答えが出ない→

 不安になる」ということになり、こころの中にわざわざ不安を作ることに

 なる。答えが最初から出ないのに思い悩む時間ほど無駄なことはない。大

 事な人生の時間がもったいない。

  だから、先のことは考えない。明日のことさえも。

 

  過去のことも振り返らない。これも同じこと。過去はもう過ぎ去って

 しまったこと。だから、どんなに逆立ちしたって変えられない。だから、

 過去のことを考えてクヨクヨすることも、答えが出ないことを思い悩むこ

 と同じこと。結局、この時間も無駄だしもったいない。

  だから、過去のことも思わない。

 

  じゃあ、どうすればいい?

  今、この瞬間のことを考える。

  今この瞬間をどう生きるか〜どう楽しむか?それを考え、できることか

 らやってみる。そうすると、不思議と「不安」はいつの間にか消えてい

 る。

 

  『一日一生』『一瞬一生』

 

  僕たちは、過去に生きているのでもなく未来に生きているのでもない。

 『今ここに』生きている。

  なら、今どうしたら少しでも楽で気持ちよくなれるかを考える。

 

  これは、いつも影のようにつきまとう「不安」君との上手い付き合い方

 の一つだ。

 

 

* 良いことを見つける

  人間の頭は、とかく、できていないことやできなかったこと等マイナス

 に考えるようにできている。そこから、いわゆる「反省」というやつが出

 てくる。それは、人間が生き残るための一種の防衛機制なのだろうが。

  つまり、頭は「〜すべき』というルールに支配されていて、絶えずその

 ルールと僕たちの行動とを照らし合わせ評価している。でも、生きてる

 と、ほとんどのことは頭が考えているようにはいかない。つまり、理想

 通りには事は進まない。むしろ、人生は「うまくいかない」ことの連続。

  そうすると、常に「〜すべきだった→できなかった→うまくいかない自

 分はダメだ(自責)→心身の症状」という形になりやすい。

 

  この状況に陥らないためには、できなかったことを考えるのではなくで

 きたことや良かったことを考えるといい。1日のうちに、一つや二つはで

 きたこと、頑張ったこと、良かったことはあるはずだ。もし、そういった

 プラスのことが一つもないと感じる人がいるとすれば、その人は、プラス

 なことがないのではなく、プラスなことを探そうとしない人だ。

 

  どんなことでもいい。例えば、今日は天気が良かったとか、風邪を引か

 なかったとか、少し起きている時間が長かった(=たくさん寝られた)と

 か... 

  なんでもいい。とかく、良いことが何もないという人は、日常滅多に起

 こらない特別なことを思いつこうとしていることが多い。例えば、宝くじ

 が当たったとか、彼氏ができたとか。そんなのは人生に毎日起きることじ

 ゃない。一生起きないかもしれない(この間の年末ジャンボ1等7億円が当

 たった人は心から羨ましいが)。

  

  もっと、毎日の生活の中で「良いこと」があるはずだ。今これを読んで

 下さってる人は、少なくとも目が不自由ではないだろうし、読もうという

 意欲もちょっぴりはあるだろうし、それ以上に、北朝鮮のミサイルが飛ん

 できていないから読める時間を持てていらっしゃるんじゃないかしら?

  僕たちには、そういった、普段意識はしないけれども与えられている

 「良いこと」「ありがたいこと」「恵まれていること」「頑張ったこと」

 ってあるんじゃないかな?

  でも、それって、さっきも述べたように、人間の頭はもともとマイナス

 思考にできてるから、えいや!って、「プラスに考えよう」「どんな小さ

 なことでもいいから良いことを見つけよう」って「意識」しないと絶対に

 気づけない。

 

  この「意識する」という能動的(自分みずからそうしようという積極

 性)な考え方が大事なんだと思う。

 

 

まだまだ書きたいことはあるのですが、長くなってしまうので今日はここまで....

 

 

 

 

「あ〜明日からまた仕事か...」いかんいかん...(笑)<マイナス思考>

  →「明日から、仕事もできるし患者さんに会える。うれしい!」<プラ

ス思考>

 

 

 

 

 

ありがとう....すべてに                       2017/1/4

 

 

 

 

 

 

 

これからの時代を生き抜くために

 

 先日、あるサービス業のオーナーの方とお話をしていたらこんなぼやきを聞きました。「最近の若い人たちはすぐに辞めてしまう。だからいつも人手不足で、いつまでたっても残業が減らない」というものでした。

 その方によると、もっと技術が向上して欲しいと思って注意するだけで休んだり辞めてしまうので、注意もできないそうです。こんなぼやきや相談は、僕が勤務医をしていた頃もよく聞きました。

 

 僕たちが社会人になった時は、「叱られてなんぼ」という考え方が当たり前でした。注意されたり叱られたりすることは当然だと思っていたし、むしろ、無視されるよりも良いと考えていました。研修医になった頃は、仕事が終わると毎日指導医の部屋に呼ばれてボロクソに説教されました。もう、お前は人間じゃないというくらい言われて人格を否定されて、医者を辞めたいと思ったこともありました。今でいうパワハラで、当然ものすごいストレスを受けるわけですが、それでも、それを乗り越えていくことで自分が強くなっていくんだと自分に言い聞かせてやっていました。社会全体を見ても、そういう考え方は特別ではなかったように思います。パワハラという言葉さえなかった時代でした。

 

 でも、今の社会は、どうも僕たちが若かった頃とは少し様子が違うようです。やたら、プライドは高いけど打たれ弱い人たちが増えている。また、そういう人たちを温かい目で見守りながら鍛えていくゆとりも、今の社会にはないような気がします。

 

 先のオーナーの話を聞いていると、辛いとか苦しいという状況を避けながらできるだけリスクを負わないで生きていくことが望ましい...そう思って生きている人たちが増えてきているのではないか?そして、それは、幼少期から’負の状況’を経験し乗り越える機会が少なかったことも関係しているのではないか?と....勝手な想像ですが、そう考えてしまいます。

 

 僕が子供の頃はいわゆる高度経済成長時代で、アメリカに追いつけ追い越せという時代でした。アメリカから入ってくるアニメやドラマなどを通して豊かなアメリカ社会に触れ、憧れ、日本社会全体が「アメリカに追いつくこと=生活が豊かになること」と感じていた時代でした。だから、苦しくても皆が必死に働いていました。社会全体に活気があったし、貧しいながらも...というか、貧しいからこそお互いが励ましあい助け合って生きていました。 働くことは大変だけど、働けば働いただけ給料が上がり生活が豊かになっていった。手動洗濯機が自動洗濯機になり、白黒テレビがカラーテレビになり...といった具合に。だから、労働へのモチベーションも自然に生まれていたのではないか?と思います。その頃の様子は「3丁目の夕日」という映画にもよく表現されています。

 

 でも、現代社会はどうでしょう?

 日本は、経済的にはようやくアメリカに追いつき、’経済大国’と言われるまでになりました。昔、’三種の神器’と言われた(白黒)テレビ、洗濯機、冷蔵庫は今や当たり前のようにどこの家庭にもあり、それどころか、電子レンジ、エアコン、DVD、CD、スマホ...etc 当時は考えられないような便利な物が当たり前のようにある。’物’はとても豊かになりました。

 

 でも、こんなに物質的には豊かになったのに、現代人の心はどうでしょう?満たされたでしょうか?あの高度経済成長時代には、生活が豊かになれば幸せになれると考えていた人たちは多かった...いや、ほとんどの人たちがそう信じて疑わなかったのではないか?でも、自殺者の数が未だに年間2万人を下らず、先進国の中でも自殺率が高いと言われていることからもわかるように、物質的に豊かになったからといってひと昔前と比べて幸せと感じている人たちの数が当増えたかというと、必ずしもそうではない気がします。

 

 人は、苦しかったり辛い状況に置かれるとなんとかしようと思います。それは自然な生存本能です。その『あがき』の経験が人を強くしていきます。ちょうど、苦しくても痛くても毎日トレーニングを続ければ、筋肉が太くて硬くなっていくように。人の心も同じです。

 でも、小さい頃から物質的に恵まれ(=経済的に恵まれ)、家庭でも叱られることなく育ってしまうと、『あがき』の経験ができないためにひ弱な人格のまま大人になり社会に出て行くことになります。そして、そこで途端に破綻する。破綻しないまでも、負の状況を回避して「無難に」やり過ごそうとする。先の、オーナーの方のぼやきの背景には、このような現代人のあり方や社会の変容が背景にあるような気がします。

 

 今の人たちを見ていると、何のために学校に行っているのか?何のために働いているのか?何のために生きているのか?...そういうことがわからないで、ただ日々の忙しさに流されて生きているように見えます。そして、気づいたら老後だった....と。皆、どこに向かって走っているんだろう?と思います。

 

 人が、ストレスに対してとても弱くなっている。でも、個を重んずる個人主義は以前よりも尊ばれてるので、おせっかいをしない(または出来ない)がゆえに、社会全体のつながりが希薄になってる。個々の絆は薄くなり孤独になっていく。そうなると必然的に、社会としてのストレスに対する抵抗力(ストレス耐性)も弱くなっていく。こんなわけで、現代社会は人も社会もストレス耐性が弱くなっていると感じます。

 

 これは、例えて言えば、風邪に対する抵抗力が弱っている人のようです。風邪を引きやすい→すぐに薬を飲む→体自身の力(自然治癒力)で回復しない→体の抵抗力が落ちる→ますます風邪を引きやすくなる ....

 

 現代社会は、物質的に恵まれ対人関係的にも個人主義に守られて人と関わることが少なくなったため...

 『あがき」の経験が少なくなる→人や社会の抵抗力が弱くなる→リスクを負わない人生の選択をする→人や社会に活気が無くなる...  のようになっていないか?

 

 あえて誤解を恐れずに言わせていただけば...人生がリスキーであるからこそ人は鍛えられ強くなっていくのであるならば、人生はあまり「生きやすく」ない方が良いのかもしれません。

 苦しさや辛さは人生のトレーナーのようなもの。それを不幸だと感じるのであれば暗い気持ちしか出てきませんが、鍛えられているんだと考えれば生きる勇気も湧いてきます。

 

 

 現代社会は、あの高度経済成長時代よりもむしろ生きづらい状況になっていると思います。なぜなら、あの頃の方が目標を設定しやすく、ある意味シンプルだったからです。努力すれば物やお金や暮らしの豊かさが手に入った。努力したら努力するだけ報われた。見に見える形で返ってきた。だからわかりやすい生き方ができた。生きる目標を立てやすかった。

 でも、今は、豊かさが逆に人生の目標を見失わせ、どう生きたら良いかわかりにくくさせてしまっているのではないか?そういう意味では、昔に比べて今の方が混沌としていて生きづらくなっていると思います。

 

 

 では、これからの時代に生き残っていくためにはどのような能力が必要なのでしょう?

 それは、負の状況もプラスに変えてしまうような勇気としたたかさだと思います。

 

 どこの高校や大学に入ったとか、どこの会社に入ったとか、年収がいくらだとか...そんなことは幸せの基準にはなりません。なぜなら、どんなに良い学校や会社に入っても、この混沌とした社会を生き残っていく力は授からないからです。昔は、良い大学にいく→良い企業に入れる→生活が保障されるといったようにシンプルでしたが、バブルが崩壊しリーマンショックが起こってから、どんなに良い会社に入ってもどうなるかわからなくなりました。つまり、社会構造が変化したことで社会の価値観が変化したのです。ですから、今では有名大学を卒業しても就職できない人が多いと、先日の新聞でも報じられていました。

 

 そうなると、これからは、どこの高校や大学を出たとかどこの企業に入ったということは何の役にも立ちません。お勉強ができることよりも生き残るためのサバイバル能力を身につけているかどうかということが重要になります。それは言い換えれば、どんなに辛く苦しい状況になってもそれを乗り越えていく精神力、想像力、そしてコミュニケーション能力が必要だということです。お勉強ができるということは、ゲームが上手とか足が速いとか料理が上手といったことと同じようにその人の一つの能力かもしれませんが、それ以上のものではなくその人の価値を決めるものでもありません。いくらお勉強ができても、良い学校や会社に入っても、精神力、想像力、コミュニケーション能力が乏しければ生き残ることはできません。

 

 

 ....想像力とは、相手の立場に立って考えたり、その場の空気を読んだりする「対人関係的想像力」と解釈してください。それが生き残るために必要だということはもう説明するまでもないでしょう。

 

 では、どうしてコミュニケーション能力が必要なのか?

 それは、'HELP(助け)’を人に求めるためにはコミュニケーションが欠かせないからです。

 僕たちは生きてると様々な壁にぶつかります。その中には、どんなに逆立ちしたって乗り越えられない壁もあります。そういう時に一人で頑張ろうとしすぎると、心や体の病気になったりして倒れてしまうこともあります。そんな時は勇気を出して人に助けを求めなければなりません。そのためにコミュニケーション能力は不可欠なのです。

 

 これらの能力は、一言で言えば『人間力』。

 その『人間力』を身につけること....これが、これからの時代を生き抜くために必要なのではないでしょうか?

 

 そして、この『人間力』を鍛える場は、まず家庭であり、学校であり、社会です。

 だから、大人がもっとしっかりしなくちゃいけない。大人がしっかりしていないと子供はしっかり育たない。そう思うのです。

 

 

 

 

 

まだ雪がないのが怖い                      2017/1/7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学入試

 

先週の土日はセンター試験が施行された。

いよいよ、今年の大学入試も本格的に始まった。

 

 

 振り返ってみれば、僕は今までの3つの大学入試制度を全て受けた。自慢できることではないが(汗)。

 

 高校3年の現役の時。その時は、まだ統一テストのようなものはなく、各大学が個別に入試問題を作って受験する制度だった。国立大学は一期校、二期校に分かれ、2回受験できた。

 僕が現役の年はその旧入試制度の最後の年で、ある意味最悪の学年だった。なぜなら、もし浪人したら、翌年からは共通一次試験という国が行う初めての全国統一テスト〜つまり、今の共通センター試験の前身を受けなければならなかったからだ。だから、同級生は、絶対現役合格をしたいと誰もが思っていた。

 しかし僕は浪人して、共通一次試験を受ける羽目になった。最悪だった。そして3浪後に美大入学。これが二つ目の入試制度。

 そして、美大を出て数年後に医学部を受験した時は、現在の「共通センター試験」。

 

 でも、文部科学省はどうしてこんなにコロコロと入試制度を変えるのだろう?そのとばっちりを受けるのは、何より受験生たちだ。役人は、受験生の気持ちを何とも思っていないのだろうか?だいたい、全国共通の問題を解かせて何をしたいのだろう?国民の平均的な学力を上げるため??もしそんなことを真面目に考えて入試制度を考えていたとしたら滑稽だ。学校で教える「お勉強」を基準に国民の学力を向上させることで国力や国際競争力が上がるとはとても思えないからだ。国の力、国民性とは、学力といった小さな物差しで作られるほど単純ではないからだ。

 

 さらに数年先には、また以前のような記述式問題を復活させるという。バカじゃない?そんなら、最初からセンター試験みたいなものなんか取っ払っちまって、元のように各大学が個別入試をすれば良いのだ。それが最もシンプルでわかりやすい。

 

 このように入試制度をコロコロ変えたり、「ゆとり教育」で授業時間を削ったかと思えば、また授業時間数を復活させたりするのは、そのまま、国の教育に対するコンセンサスやポリシーが一貫していない証拠だ。この国は、子供たちをどのように育て導いていくのか....そういう一貫した理念を持っていない。その時々で交代した局長クラスが、自分の勝手な概念で入試制度をはじめとする教育制度を気まぐれに決めているようにしか見えない。

 

 教育とは、50年後、100年後を見据えた長い物差しで考えられるべきだ。その際、基礎になるのは、日本という国がそのようにあり続けるのか?国際あ社会の中でどのような役割を担っていくのか?日本人固有の歴史や文化、民族せいをどのように守り伝え続けていくのか?....そういった理念が不可欠である。

 

 でも、今の教育制度だけをとってみても、この国の役人や政治家たちは、一貫して長期的で大局的な視点を持って国政を行っているとは思えない。

 

 

 

 だからこそ、受験生の皆さんに言いたい。

 

 受験で人生が決まるなんていう人がいるけど、信じちゃあいけませんよ!

そんなの丸っ切り嘘だから。そもそも、受験制度自体が国の気まぐれで成り立っているようなものなのだから。

 

 

 受験は、人生のほんの一瞬の通過点でしかない。どこの幼稚園、どこの小学校、どこの中学校、どこの高校、どこの大学に入っても....人生そんなに違わないよ。東大出ても就職浪人はわんさかいると、先日の新聞にもありましたよ。

 

 「お受験」とは「ゲーム」と同じもの。

 どんなに下手な人でも、何度も何度もやってると強くなるゲームと同じ。特に、この国の入試制度は、記憶力を試される要素が大きい。英語にしても、社会にしても、化学にしても、数学でさえ、パターンを覚えて答えるような「お勉強」をすれば何とかなるものです。それは、ゲームが上手になるのと同じこと。ゲームも、勝利パターンを覚えて何度もやってれば誰でもうまくなるでしょ?だから、世間一般で言われる「有名校」と言われているところに入ったとしても、それは、「パターン化」による記憶作業を頑張っただけであって、本当の学力、つまり、思考力、想像力、判断力、想像力などが優れているとは必ずしも言えないのです。それは、「お受験」という「ゲーム」がお上手だったということです。

 

 だから、受かった人が偉いわけではない。人間としての価値が高いわけではない。ただ、「お受験ゲーム」が上手というだけなのです。それって、人間の価値を決めるものじゃないでしょ?だって、ゲームが上手な人が人から信頼されたり好かれたりするとは限らないでしょ?

 

 だから、もし第一志望に受からなくても全然大丈夫。堂々と第二志望に入ればいいのです。第二志望の方が学内で良い成績を取りやすいし、何よりも変なプレッシャーを受けずに済む。大事なのはブランドではなく、そこでいかに自分が自分らしく過ごせるか?ということです。

 

 「お勉強」ができることは「ゲーム」が上手と同じこと。それは、その人の特技かもしれないけど、人としての価値を決めるものではない。

 ならば、「お受験」にエネルギーを注ぐことほどバカバカしいことはありません。浪人してまで有名校に入るなんて、僕からすればバカバカしくて時間がもったいないと思います。僕は、将来やりたい仕事が医師か美術評論家しかなかったから3年も浪人したし、また、20代も終わりかけてる時に死に物狂いで勉強したけど、もしそういうはっきりした目標がないなら、大学なんてどこに入っても同じだし、むしろ大学行かずに早く手に職をつけた方がよっぽど面白いと思う。

 

 

 受験シーズンに入って、自分の受験時代を懐かしく思い出しながら徒然にそんなことを思う今日この頃です。

 

 

 

 

 

 

明日は大雪の予報...めっちゃ、憂鬱                   2017/1/21

 

 

 

 

 

 

落ち込んだ時...

 

今日は、なぜか朝から沈んでいた。

特にきっかけがあったわけではない。

 

 

 今、クリニックは3月からスタートする新システムの導入と年始明けで患者さんの数が多く毎日がとても忙しい。昼休憩がない日もあるくらいだ。それで、心も体も疲れていることもあるだろう。

 

 だから、今日は思い切って一日寝てみることにした。体調がすぐれないことが大きかったが、それと同じくらい心も沈んでいたからだ。

 頭では、「そんな過ごし方したら時間がもったいないぞ!きっと、’’ああ、またこんな過ごし方してしまった’’って後悔するぞ」と囁いた。

 でも、今日は心に素直に従ってみることにした。昼食を食べた後、すぐに横になった。何回か目が覚めたが、日が沈むまで結構寝ることができた。

 

 夕方に目を覚ました。でも、期待通りには行かず全然スッキリしていなかった。シャワーを浴びてみた。少しスッキリした。でも、まだどこかモヤモヤしている。

 そこで、マーラーのシンフォニー第5番の第4楽章「Adagietto」を繰り返しリピートしながら、目をつぶり呼吸を整えてその音の中に入っていった。そうすると、視点が定まる「あるところ」に行き着く。目を閉じているのだから、あくまでも「闇の中のある視点」である。イメージでは、鼻の前方約10cmくらいのやや下方。

 

 そうすると、少しして、小学校の頃の授業の風景が浮かんできた。先生が言った言葉じりを捉えて、僕が面白おかしく返しクラスメイトが大笑いしていた。そういえば、僕はクラスのみんなを笑わせるのがうまかった。その場の空気を読んで、場を和ませるのが好きだった。また、そうやって、みんなが楽しい気持ちになってくれることに喜びを見出していた。

 

 そうだ...。

 僕は、子供の頃から、人を気持ちよくさせることが嬉しかった。それに喜びを感じていた。

 医師になりたかったのも、かっこいいという表面的なことへの憧れはあったものの、本質は、少しでも人の心を楽にしてあげたい、満たしてあげたいということだった。

 

 マーラーをBGMにした僕なりの瞑想で、忘れかけていた大事なことを思い出した。

 

 それに、まだ気づいたことがある。

 

 幼少期から、自然から感じる「気」のようなものに敏感だったし、それを表現することが得意だった。その「気」を絵画や音楽で表現することが面白かった。「気」を感じると自分の心や体が跳ねるのがわかった。ものすごいエネルギーが心の中で渦巻くのを感じた。そういう時は「気」という目に見えない何かと一体化している。そんな時、自然に手が動いて絵画になり、体が動いてパーカッションの音楽になった。そういう時は、思考は停止し、心が感じるままの「空」の状態になっていた。

 

 最近は、そういうことを忘れていた。

 

 でも、それが大切だ。今の僕には。

 それが、僕の良いところなのだから。

 僕を僕たらしめるものだからだ。

 

 

 いつの間にか、沈んだ感情は消えていた。

 

 

 明日からが、また面白くなってきた。

 

 

 

 

 

マーラーはいい                         2018/1/27

 

 

 

 

 

 

子供と大人

 

先のブログにも書いたが、最近幼少期の自分を思い返すことが多い。

 

子供の頃は、すべてにおいて素直だった。

 

先のことを考えず、「今」のことだけを考えていた。

自然に対して感動し、畏れ、一体化することの気持ち良さを知っていた。

 

だから、春夏秋冬を楽しんだし、その時々を彩る行事にワクワクした。

もちろん、辛いことや苦しいことはたくさんあった。

でも、自然や人の営みから得られる歓びの方が大きかったから乗り越えられたのだと思う。

また、親に守られているという感覚も基本的な安心感につながっていただろう。そういう意味では、僕は幸せだったと思うし、親には感謝しなければならないと思う。

 

ところが、大人になってからはどうだろう?

 

知恵や経験を得たことによって、いつの間にか、先のことばかり考えて「今」を味わったり楽しんだりすることができなくなってしまった。

そのことが、子供の頃に慣れ親しんでいた自然から遠のく形になり、感動や喜び、ワクワク感よりも、不安や落ち込みの方が多い状態を作ってしまっているのではないか?と思う。

 

そもそも、先のことなんてどうなるのやら....誰にもわからない。

なのに、そのことを考えるから悪いことばかり考えてしまい不安や緊張を作る。

それは、経験や知識といったものが生み出す副産物だ。

大人になると、この知識や経験が自分を苦しめるツールにもなってしまう。「昔〜だったから」「きっと〜なる」といった主に悪い内容のの予期不安は、先のことを考えすぎてしまって、当てにもならない過去のマイナスの体験から生まれてきたものだ。そうやって、わざわざ無くてもよい不安を自分自身で作り出しているのだ。こんなに馬鹿馬鹿しいことはない。しかし、人間の脳は、防衛本能からそのようなシステムを作り上げてしまった。

 

 

だとしたら、もっと、「今」だけに生きてみたらどうだろう?

 

過去は変えられないし未来はわからないのだから。

 

もっと、「今」の「感覚」に正直に生きてみたらどうだろう?

そうすれば、先のことがどうなるかなんてどうでもよくなるのではないか?

 

例えば、今ご飯を口にしているのなら、お米が口の中で変化していく感触や味に集中してみるといい。音楽を聴いているのであれば、その音の渦の中にゾッコン浸ってみるといい。DVDを観ているのであれば、そのフィクションの世界の住人になってみればいい。

 

子供はそういうことが得意だ。僕も、子供の頃は、自然にそういうことをやっていたはずだ。

 

その感覚をもう一度思い出し、自分の中に再取り込みをしていく。

 

例えば、深呼吸、瞑想、ヨガ、座禅、気功etc...といったものも、子供時代には当たり前のようにやっていて大人になってからいつの間にか忘れてしまった、「感覚」に素直に生きるという状態を再認識する方法論ではないか?

 

五感を大切にすること、楽しいとか嬉しいといった感動に貪欲になること、不安だとか怖いといった感情もごまかさずに行け入れ許してあげること。

そして、それぞれをしっかり味わうこと。「今」この感覚をしっかりと。

 

絵を描く、音楽を聴く、素敵なところを散歩する、好きなことをやってみる...そういったことは、この「今」の感覚を良い形で味わえる方法。

 

 

そんなことを考える今日この頃。

 

 

(PS)

 

<子ども>

*「今」のことしか考えない→「今」を味わう

*「〜したい」と生きている

*ワクワク、ドキドキ感が多い→感動が多い

*人の目を気にしない

*興味があることへの集中力は半端じゃない

*「自然」と一体化している(できる)

 

<大人>

*「先」のことを考える→「今」を味わえず予期不安が多い→緊張、不安

*「〜すべき」と生きている

*ワクワク、ドキドキ感が少ない→感動が少ない

*人の目を気にする

*集中力が途切れがち

*「自然」と一体化していない(距離を置く)

 

 

 

 

 

また雪だ                            2018/2/11

 

 

 

 

 

 

 

やっぱり、日本人って素晴らしい

 

今、韓国の平昌で冬季オリンピックが開催されています。

様々な選手が一生懸命頑張る姿に、毎日感動させられています。

 小平選手の500mでの金メダルは、ご実家茅野は地元ですから、大いに湧きました。

 

 他にも心を打たれた競技はたくさんあるのですが、カーリング女子を見ていていろいろなことを教えられました。

それは、一言で言えば、「チームワーク」と「楽しむ」ということ。

 

 試合の合間に、彼女たちは”おやつタイム”を設けて、談笑しながら特大のイチゴやリンゴを頬張っていました。もちろん、ピクニックではないですから、談笑といっても次の試合の作戦を練っていたのだと思いますが、皆でおやつを食べるというのは、何と微笑ましい光景でしょう!その時の彼女たちの表情は柔らかく、笑顔でいっぱいでした。そして、その中でいそいそとリンゴの皮をむいて皆に提供していたのは、チーム最年長であり主将の本橋麻里(通称「マリリン」)さんです。

 

 彼女は、コーチが「今でも、一番上手なのは麻里だよ」というほどの技術を持ちながらも今回のオリンピックでは一度も出場せず、常にチームを支える裏方に徹しました。公式練習で一人黙々と石を投げ続け、翌日の試合で使う石の具合を確かめ、どの石を選手に使わせるか分析。試合の合間には、皆のためにリンゴの皮をむく。

 当然、今まで日本のカーリングを引っ張ってきた立役者で一級の実力を持っている彼女ですから、自分自身も試合に出たかったでしょう。でも、試合は若い選手に任せて黒子に徹した。これは、なかなかできないことだと思います。

 

 そこには、彼女のリーダーとしての器の大きさを感じますし、一人で勝つのではなくみんなの力で勝つんだというチームワークを感じます。

 そして、試合の合間に見せた”おやつタイム”の皆の和やかな表情。

よく、日本人にありがちな、「結果が全て!」といった、ともすれば気合が入りすぎた雰囲気ではなく、楽しみながら全力を尽くすという、あまり今までの日本人には見られなかった(ある意味、頭ではわかっているけど出来なかったこと)あり方を見せてもらえたような気がします。

 

 本橋選手は、昔は独りよがりで感情の浮き沈みが激しい選手だったそうで、”困ったちゃん”と言われていたこともあったそう。また、過去に、海外の選手が家族を作り楽しんで競技に打ち込んでいるのを見て「とてもかなわない」と思ったそうです。その経験から、チームみんなが1年365日のうち300日以上共に生活をし今のチームを作ってきた。

 

 

 今回のオリンピックでは、フィギュアなどの個人競技でも良い成績を上げていますが、チームワークがとても大事な要素になる団体競技でも日本が優秀な成績を収めているのは、チームワークを大事にする日本人の真骨頂が発揮されているからではないか?と思います。

 

 カーリング以外でも、個人の力では勝るオランダに勝って金メダルを取ったパシュートという3人一組で滑る競技でも、そのチームワークの良さは発揮されました。準決勝では、最も背が高い菊池彩花選手(彼女も長野県出身です)が先頭で滑り、後の選手の風よけになって他の選手の体力を温存した。その時、菊池選手は、自分が次の決勝に出れないことはもうわかっていた。そして、あのオランダとの決勝。オランダはメダルを獲得した選手ばかりそろえてきて個人の実力では圧倒的に有利でした。しかし、チームワークは日本の方が一枚も二枚も上手だった。前の選手と20 cmほどしか離れないで一糸乱れず滑るあの「マシン」のような動き。まるで3人の選手が一人の選手のように見えるくらい。

 そして、絶えず一番先頭の選手が後ろの選手の盾になりながら守り、それを交代しながら滑る。あの見事な試合ぶりは、3人目の選手を見捨てたとバッシングされた韓国のチームとは対照的で、世界中の人たちの目に日本人のチームワークの素晴らしさを焼き付けたことでしょう。

 

 この選手たちのあり方は、戦国の世で、味方が逃げる間敵を引きつけておく「しんがり」という役を担う武将の姿を思い起こさせます。

 もっと大きなものの実現のためにそれぞれが自分の持ち分をしっかり果たすこと。

 

 

 もともと、日本は資源が少ない小さな島国です。何もないところから新いものを創造するのはあまり得意ではありませんが、外から取り入れたものを皆の知恵を結集して力を合わせより良いものにすることは得意な民族です。ですから、生まれた頃から下駄のようにスケート靴を履いていると言われるくらいスケートが生活の中に根ざしているオランダにも勝てるのです。

 

 今回のカーリング、パシュート、そして記憶を遡らせれば、リオデジャネイロオリンピックや昨年の世界陸上で銅メダルを取った男子400mリレーなどもその好例でしょう。

 

 日本人の勤勉性、分析能力、優しさ、礼儀正しさ、チームワーク....これは世界に誇れる日本人の民族性だと思います。それが、今回の平昌オリンピックでもすごく光っていると思います。

 

 そして、そこに「楽しんじゃう」という要素が加われば....世界最強!だと思います。

 

 

 今、世界中に「分断」と言われる現象が起きています。こんな状況では、人類はいつか滅亡してしまうのでではないか?そんな危惧さえあります。

 

 今こそ、世界中の人たちがチームワークで結びついていくことが大事なのだ...それが、人類が生き残る唯一の方法なのだということを、オリンピックの選手たちが教えてくれているのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

カーリング女子...いいねえ!                                              2018/2/25

 

 

 

 

 

 

泥沼

 

今、国会はとんでもないことになっていますね。

 

 森友学園の決済文書改ざんに関する問題。

 今まで、安倍首相をはじめ政府は、数々の証拠があるにもかかわらず「嘘」をつき、挙げ句の果ては官僚のせいにしてきた。

でも、それもいよいよごまかしが効かなくなってきたようです。

 

 今回の「改ざん疑惑」は真実でしょうし、それを官僚に指示したのは、おそらく安倍首相をはじめとする政府関係者でしょう。

 しかし、それにしても、官僚が公文書を改ざんするとは...

 信じられないことです。

 

 でも、官僚も人間です。良い大学を出て苦労して官僚になった。そのプライドもあるだろうし、生活もかかっています。政治家の言うことを聞かなければクビになり、プライドも安定した生活も吹っ飛んでしまうかもしれない。だから、言いなりになって公文書を改ざんしてしまった。でも、これは立派な犯罪なんですよ。

 

 日本の政治家も官僚もここまで地に落ちたか!....と思います。

  情けないというより、日本人として恥ずかしい。

 

 でも、安倍首相も麻生副首相もひどいですね。本当は自分が蒔いた種なのに官僚のせいにして。そのために自殺者まで出してしまった。結局、こういう時は一番弱い立場の人が犠牲になる。

 

 一方では、昨日の麻生さんの記者会見を聞いていても、反省の色は全く感じられない。亡くなった方がおられるのに、あのふてぶてしい態度は一体何なんでしょう?

 これも、今の政治家たちがおごりすぎて腐りきっている証拠でしょう。

 

 でも、こんな体たらくな政治家たちを今の国会に送ってしまったのは、僕たち国民だということも忘れてはなりません。

 

 先の衆議院選挙で、自公民がどうして大勝してしまったのか?こんな信頼できない政治家にどうして票を入れてしまうのか?僕は、その時そう強く感じました。その時の世論調査では、自公民に投票した人たちの理由の第一は「無難だから」「他に任せられる政党がないから」といった、極めて安易な理由だったと記憶しています。

 でも、こんなおごり高ぶって自分の利益を優先して、平気で嘘をついたり公文書まで改ざんすることを是としてしまうような政治家たちに、日本の政治を任せていて良いのでしょうか?

 

 今回の国会の混乱を教訓にして、そろそろ国民も目を覚まさなければなりません。もっと怒らなければなりません。

 なぜなら、今、日本の政治家や官僚の「正義」や「モラル」が問われているからです。

 と同時に、そういう政治家を選んだ我々国民の「正義」や「モラル」も問われているのです。

 

 今の日本の政治に民主主義はありません。あるのは、一部のおごり高ぶった政治家たちによる独裁政治です。国民の声は反映されず、一部の政治家が私利私欲のために政治を動かしています。人類の歴史からも、一局に権力が集中した独裁政治では必ずこういう問題が起こり最悪の結末を迎えています。

 

 今こそ国民が声を上げて、この危ない政治にストップをかけなければならないのではないでしょうか?

 

 

(PS)

 財務省は、改ざんした(財務省は「書き換え」と言っていますが)ことを認めて明日国会で発表するという報道がなされています。大阪地検が改ざん前の決済文書を財務省に提出したようです。国会で改ざんはなかったと言い続けてきた佐川国税庁長官をはじめとする財務省の言動は嘘だったということになります。

 

 当然、そのトップにいる麻生財務大臣や任命した安倍首相にも大きな責任と疑惑があるわけですが、おそらく、彼らは、文書改ざんはあくまでも財務省の官僚がやったことで自分たちは指示していない、関係ないとシラをきるでしょう。佐川国税庁長官を処分したように、次は近畿財務局長の処分をし、それでなんとか幕引きをしたいと思っているのでしょう。いわゆる「トカゲのシッポ切り」です。

 

 でも、そんなわけにはいきません。だいたい、自分たちに不利になるような、ある意味犯罪にもなる公文書改ざんをわざわざ官僚がするでしょうか?そんなことしたって、官僚には何のメリットもないでしょう?でも、これだけのリスクを冒してまでするということは、当然もっと上からの指示があったはずです。強力な権力に屈しざるを得なかったからこそ、公文書を改ざんしたのです。それでは、その強力な権力とは誰でしょう?もう国民は分かってます。

  ですから、麻生さんも安倍首相夫妻も、国民を納得させるなんらかの説明をしない限りは逃げられないのです。

 

 

 ここまできたら、前川前文部科学省事務次官のように、官僚みんなで反乱を起こしたらどうでしょう?

 皆で、「安倍さんの指示でやりました」と白状すれば良いのです。

 だって、それが筋というものでしょう?官僚たちも、安倍首相夫妻の犠牲者なのですから。

 

 

 

 

 

 

世も末か...世も末だ....                  2018/3/10

 

 

 

 

 

 

 

 

ヤバイよ、もう

 

ヤバイよ、もう、この国は...

 

 森友問題に加え、文部科学省による前川さんの講演調査。これも、結局は自民党の議員が絡んでいた。文科省は必死に自分たちの判断で行ったことだと釈明してるが、国会議員が質問事項をいちいちチェックしていたことがわかった。おそらく、加計学園問題についていろいろ話されるのが恐いのだろう。

 じゃあ、誰が怖がってるのか....?もう国民は分かってる。

 安倍さんですよ。

 

 ここでも、政治家が官僚に責任をなすりつける構図は現在進行形の森友学園問題や、先の防衛省の問題、厚生労働省の問題と同じだ。皆、安倍政権が自分たちの都合を優先させるために隠蔽したり官僚のせいにしてきた。

 官僚は、どこまで政治家の尻拭いをさせられるのだろう?どうして皆んな怒らないの?なんで、いつまでも言いなりになってんの?こんなにコケにされてるのに!

 

  27日に、財務省の佐川さんの証人喚問が決まったそう。でも、所詮、政治家に脅されて(例えば、本当のことを喋ったら家族をどうこうするぞ...とか)、「今、検察による調査中ですのでお答えできません」と逃げるのがオチなんじゃないだろうか?

 ここで佐川さんが洗いざらい真実を話せば歴史上のヒーローになるだろうし、話さなければ全ての責任が自分にかかってくる。まさに、佐川さんの「人」が問われる場面だろう。

 もし僕が佐川さんだったら、すべてぶちまけるだろうな。官僚の最高地位まで上り詰めたのに、道半ばにして約5000万円の退職金と引き換えに安倍さんに罪をなすりつけられて官僚人生を終わらなければならないわけだから、最期くらいはカッコよく身を引きたいと思うだろう。今回の証人喚問でも、そのような大どんでん返しを期待したいものだが...。

 

 

 でも、安倍さんも麻生さんも、森友学園の問題は誠実に調査し原因を究明しますなんて言ってるけど、こんなこと言っちゃっていいんでしょうかね?どうやって収集をつけるんだろう?だって、泥棒やった親分が、「うちのものが泥棒してるか今調べておりやす」と言ってるようなものだから。誰がどう考えたって、ことの張本人は安倍さん夫妻なんだから。そんなの、子供だってわかるくらい自明なことなのに。もうホントに...開いた口がふさがらない...

 どうしようもないくらいドロドロ状態なのであります、今の国会は。

 

 

 それにしても、国会の証人喚問で正直に「真実」を述べた籠池夫妻。もう8ヶ月も拘置所に拘留されてる。面会禁止だそうだ。きっと、今出てきてべらべら喋られたら安倍さんが困るからだろう。でも、これって立派な人権侵害じゃないですか?国民主権の民主主義国家とは思えない。文科省の調査といい籠池さんの拘留といい.... 臭いものには蓋をするという、国民の監視、言論統制が現実に行われている例だろう。この国は、いつからこんなアブナイ国になってしまったのだろう?

 いや、もしかしたら、籠池夫妻の身の安全を守るために、検察がわざと交流期間を延ばしているんじゃないか?だって、シャバに出てべらべら喋っていたら消されてしまうかもしれないでしょ?そういった可能性もありかな?とも思う。何れにしても、怖いですね...。

 でも、ここのところ毎日、政治家や官僚たちが嘘八百を並べている映像ばかり見ていると、あの籠池さんが、国会やインタビューに答えていた姿が、やけに新鮮でカッコイイ姿として思い起こされるのは僕だけだろうか?

 

 

 そもそも、強行採決で決まってしまった安保法案等が施行された頃から「この国はヤバイ!」と思っていたけど....

 

 本当に、この国ってヤバイですよ!!

 

 

 

 それにしても、政治家って、どこまでずうずうしくて薄汚いのだろう?

 

 事実は小説より奇なりというが、今この国で起こってることはまさにその奇怪なことばかり。しかも、必死にそれを隠そうとしている政治家たちの言動や行動の稚拙さ、滑稽さといったらありゃしない(笑)。

 小学生よりもレベルが低いし、小説以上におぞましい。

 

 

 こういう政治家たちが蔓延ってしまったのは、安倍内閣を中心とした自公民が一局独裁政治をやってきたから。彼らは、政治倫理を破ってもおかしいと感じないくらい麻痺してしまってるんだろう。口では国民のためとかなんとか綺麗な言葉を並べ立てるけど、実際は自分たちの利権に執着してるだけ。

 最近の、安倍さんや麻生さんや諸々の政治家たちの言葉には心が動かない。何を仰られても、その場しのぎだなとしか感じないから。

 

 でも、その独裁体制を生んでしまったのは、今の政治家たちを選挙で選んでしまった国民の責任ですよ。

 

 もういい加減彼らの独裁政治をやめさせなければ、この国ははダメになってしまうよ。今の日本では、北朝鮮をはじめとする世界中の独裁政権を批判する権利はないと思う。こんな国民を大事にしない非民主主義な国が、あと2年後にオリンピックを開催しようとしてる....

 

 

 

 

日本人として、恥ずかしい。

 

日本人として、情けない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外は、季節外れの吹雪                  2018/3/21

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新電子カルテシステム

 

3月2日から、クリニックの電子カルテが一新しました。

従来以上に患者さんの診療を充実させるための決断です。

 

 2ヶ月前から、休日返上で何度も新しいカルテの使い方の練習やシュミレーションを重ねてきました。しかし、まだまだ僕もスタッフも不慣れな部分があって、患者さんには不都合な点があるかもしれません。その点はご容赦下さい。

 

 そんなこともあったり、「冬バテ」気味のこともあって、今年に入ってから僕も少々お疲れモードが続いています。唯一の休日である日曜日は、一日中寝てしまうくらい疲れがたまっていますが、なんとかここは乗り切りたいと思います。

 

 

 毎日の患者さんの診療やコミュニケーション、そして温かい励ましが何よりの僕やスタッフの活力源です。患者さんにもっと良い医療を提供するためにもきっと乗り切りますので、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

吹雪いた後に顔を覗かせた..春                     2018/3/23

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9歳になりました

 

今日は、クリニックの開院記念日。

満9歳になりました。

今日から、節目の10年目に入ります。

 

 9年というと長いように思いますが、あっという間だったような感じもします。

 

 患者様の数も随分増え、最新のカルテ番号は3500番を超えています。

 今も、新患予約を入れてくださる方の電話が毎日絶えませんが、1日50〜60人ほどの患者様が受診されるので、新しい患者様をその日のうちに診て差し上げることが叶いません。随分お待ちいただく形になっており、大変申し訳なく思っています。この点は、開業以来ずっと、僕が心を痛めている部分です。

 

 でも、今日も、たくさんの患者様や関係者の方々から、お祝いや励ましの言葉をいただきました。

 「先生がいてくれなければ困るんだからね!」

 「また、先生の笑顔を見に来るよ!」

 

 こんな言葉をいただくと、素直に嬉しく、また力をもらえます。

 

 

        本当に、ありがとうございます!

 

 

 今年の3月から電子カルテを一新し、最新のシステムでスタートしています。でも、いくらハードの部分を充実させても、それだけでは充分ではありません。最も大事なのは、私やスタッフの患者様へのこころ〜情熱〜だと思います。

 

 10年目に入りましたが、まだまだ足りないところばかりのように感じます。

 もっと精進しないと...

 

 そう感じた一日でした。

 

 

これからも、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

春爛漫                           2018/4/13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の仕事

 

 患者さんによく、「毎日、何人もの話を聴いて大変ですね」という労いの言葉をいただく。

 

 たしかに、最近は患者さんの数が増えて昼の休憩も充分にとれないことも日常茶飯事で’時間に追われてる感’がすごいので、時々気持ちにゆとりがなくなることがあることは否めない。

 

 でも、自分の仕事は、自分がこの世で与えられた使命だと思っている。だから、疲れはするが、嫌になったり辞めたいと思うことはない。むしろ、仕事は僕のアイデンティティの一部だ。僕は、精神科医として少しでも患者さんがその方らしく生きていってくださるようにお手伝いをさせていただくために生まれてきたと考えているし、これからも精神科医で死んでいきたいと思う。

 

 

 患者さんに診察に臨むとき、常に心がけていることは「無心」。

 何も先入観を入れないで、ただひたすら目の前の患者さんの話に耳を傾ける。

 

 次はどんな患者さんが来るかなんて考え始めると、自分の心が乱れる。心が乱れれば、ピュアな気持ちで患者さんの話を聴けなくなる。そうなると、診療がうまくいかなくなる。だから、手元にはその日の患者さんの予約表があるが、できるだけ見ないようにしている。一人の患者さんの診察が終わったら、一度リセットして次の患者さんの診察に臨む。

 

 「一日一生」ならず「一人一生」のつもりで。もしかしたら、会うのがこれが最後かもしれないという思いで。

 

 

 書店には、カウンセリングの技法や治療法を説いた専門書が多々ある。僕もそれなりに勉強してきたつもりだが、実戦の場面では、そのような「指南書」は参考にはなるが、そこに書かれていることが通用することは少ない。

 

 患者さんの話を聴かせていただいている時の僕は、医師と言うよりも患者さんと同じ一人の「人」として存在して対しているように思う。

 そういう自分と患者さんに同化している自分の間を行ったり来たりしている。そうやって同じ目線で話を聴かせていただいていると、僕の心の中に『化学反応』が起こる。そういう姿を、もう一人の自分が見ている。診察中は、いつもそんな感じだ。

  

 この化学反応の一部を、専門用語では転移とか逆転移という。僕の治療の考え方は、技法云々に頼らないこと。ちょっとした技法なんてたかが知れている。患者さんの悩みや葛藤、そこから来る苦しみや不安には、そんなアンチョコな技法は通用しない。

 

 僕の心と患者さんの心がぶつかり合って、そこに生まれる『化学反応』が快復への足がかりになる...そう考えている。だから、いつも僕の心は「無心」でなければならないと思うのだ。

 

 最近は、社会が混沌としているせいか、患者さんから意見を求められることが多くなってきた。

 一時期は、医師は患者さんに答えのようなものを言ってはいけないと考えていたが、最近は、患者さんが僕の意見や考え方を求めていて、それを述べ伝えることが患者さんの快復に寄与するのであれば、ある程度伝えるようにしている。

 その言葉は、時には患者さんにとって厳しいと感じる内容もあるのではないかと思う。しかし、大事な患者さんのためにどうしても言わなければならにと感じた場合は、心を鬼にして言うこともある。そして、そこで起こる『化学反応』を治療のヒントにしていく。

 でも、そのようなやり方は全ての患者さんが理解して下さるわけではない。僕の考えを理解してもらえなくてクリニックから離れていった患者さんもいる。でも、また「先生の言ったことがようやく理解できました」と言って戻ってきて下さる患者さんもいる。そういう意味では、毎日真剣勝負だ。

 

 

 

 患者さんが快復していくときは、僕が治したとは思っていない。

 だから、患者さんから「先生のおかげで良くなりました」と言われるとどこか首のあたりがくすぐったい感じがする。

 そう言われた時は、「違いますよ。僕は背中を押しただけ。治したのはあなたの治る力が働いたからですよ」と答えるようにしている。実際そう思うからだ。

 

 医師は、専門知識で薬物療法や精神療法を行うが、それは患者さんの持っている生命力や自然治癒力を引き出す手段でありそれが全てではないと僕は思っている。最後は、患者さんが考え、決断し、治していく...そう考えている。

 

 今までの治療経験でも、患者さんが医師に依存している間は良くならないことが多い。むしろ、治療過程での様々な葛藤の中で、誰も助けてくれないのだ、医師でさえも頼りにならないのだ、だから最後は自分がなんとかするしかないのだ....と気づいた人が快復していく。

 僕は、患者さんがそのように気づくまで、ただひたすらそばに寄り添う。

 

 医師ができることは以外と少ない。話を聴き、共感し、時には同化し、寄り添うこと。それだけだ。

 

 

 そんなことしかできない。

 でも、それが僕の仕事だ。

 

 

 

 

 

 

 

はらはらと雪花散るなり山桜                   2018/4/30

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あるがまま

 

患者さんと向き合う時、『あるがまま』の自分で対することを心がけている。

 

 それは、今ずっと勉強している「禅」に起因するところが大きい。「禅」を学ぶことによって、今までの自分の考え方や感じ方、そして生き方までもが大きく影響を受けている。

今、ようやく掴みかけてきた「ある感覚」がある。そこに至れれば、自分の行き方もずいぶん楽になるような気がしている。

 

 『あるがまま』というあり様も、「禅」から学んだものだ。

 

 『あるがまま』の自分で『無心」に患者さんの話を聴かせていただく。この姿勢が、最近の僕の目指している姿勢だ。

 

 そのためには、普段からの心や体の鍛練が不可欠だ。もっともっと精進しないと...。

 

 

 

 

 

 

 

はらはらと散りける桜宵の明星              2018/4/30

 

 

 

 

 

 

 

 

緊張と過敏性腸症候群

 

毎日緊張する。

 

 朝、5時半に起きるが、起きがけの30 分くらい前から動悸と発汗がすごく、明らかに交感神経が興奮しているのを感じながらうつらうつらしている。そして、起きる時のなんとも言えないごしたさと緊張感。

 

 子供の頃から、緊張するとお腹が張ったり痛くなることがあったが、それは今も変わらない。休日は症状が軽くなるので、この症状は仕事への緊張感だと考えている。

 

 症状が重い時は正直仕事をしたくないと思うこともあるが、それも朝のほんの一瞬。仕事場についてしまえば、モードが切り替わり、自然に患者さんのことを考えている自分がいる。もちろん緊張感は続きお腹も張っているが、起きがけのような期した差はどこかに吹っ飛んでいる。

 

 医師と言う仕事は子供の頃からの夢だった。

 夢だった仕事をさせていただいているだけでも幸せだ。だから、毎日緊張しお腹の症状に悩まされるのも仕方のないことだと思う。

 緊張するから、より診療に真剣に向き合う。言い換えれば、真剣に向き合っているからこそ緊張する。仕事を一生懸命やろうとすれば、緊張がどんどん増すのは当然だ。だから、僕にとって、緊張感と過敏性腸症候群は、仕事を続ける限りは付いてまわるものだと考えている。

 

 緊張してもいい。お腹が辛くてもいい。

 患者さんに接することができ、少しでも患者さんに喜んでいただけるのなら、僕の緊張感や過敏性腸症候群なんて大したことではない。屁の河童だ。

 

 患者さんが少しでも快復されていく喜びの方が、何十倍、いや何百倍大きいことか。

 

 だから、また明日も、喜んで緊張してお腹を痛くしよう...

 

 そう思う。

 

 

 

 ....そう言ってるうちに、またお腹が張ってきた...

 

 

 

 

 

 

なんて美しい季節なんだろう                   2018/5/10

 

 

 

 

 

 

 

 

春の雨

 

  

 

  春雨や シトシト しとしと しトしト と

 

 

  幼葉(おさなば)の 頭(こうべ)を垂らせる      非情さよ

 

 

  霧雨に 烟(けぶ)る牡鹿(おじか)か 幻か

 

 

  雨露かな    首に滴り 楓の温もり


      

     見上げれば     楓が楓が   笑ってる

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

もう梅雨のよう                       2018/5/13

 

 

 

 

 

  

 

 

  

 

遊びがない

 

 先日、産業医の仕事で企業間を移動中、高速を運転してる時に、ふと、「俺って、遊びがないなあ...」と感じた。

 

 遊びというのは、レジャーという意味もあるけど、それも含めてそれ以上にもっと広い意味でだ。

 

 車のハンドルには遊びがある。だから、走行中に多少ハンドルがズレても車は真っ直ぐ走ってくれる。もし遊びがなかったら、ちょっとハンドルがズレただけで車はスピンしてしまうだろう。

 

 今の自分の毎日の生活を考えると、全くと言っていいほど遊びがなく、時間に追われる毎日だ。

 

 午前中の診察は、まず定時で終わることはなく、昼休憩にずれ込むことは当たり前...もしくは、診察が終わらず昼休憩無しなんていう日も少なくない。何も食べないと午後の診察に差し支えるので、そういう時はとりあえずカロリーメイトをお腹に流し込んで午後の診察に突入する。

 もし、運良く昼休憩を取れたとしても、書類の山が待っている。精神科は他科に比べて書類が多い。書類を書きながら昼飯を頬張るなんてこともザラ。そして、月末には、税理士への報告資料やスタッフの給与明細の作成が待っており、レセプト点検もある。

 

 こんなわけだから、昼休憩に何もやることがないということはまずない。

 本当は、頭を空っぽにして食事を楽しむような昼休みにしたいのだが....

 

 クリニックが休みの木曜日は産業医として企業を廻っているので、実質、義務がないのは日曜日だけである。

 その日曜日もあっという間に過ぎる。特に、前日に疲れ果てて泥のように眠る時は、翌日の日曜くらいは寝坊したい。でも、午後が始まるともう明日からの一週間の仕事のことを考え始めるから、休んだ気がしない。だから、土曜日なんかは、出勤する時にご近所にご主人の車が停まってるのを見ると、「いいなあ。今日から2連休なんだな」と羨ましくなる。

 

 そんなわけで、心から解放されて休めるのは、一週間のうちで日曜日の午前中だけだ。

 

 

 仕事は大好きだしやりがいもあるからやめたいとは思わないが、欲を言えば、もう少しゆとり(=遊び)を持って仕事ができたら...と最近よく思う。僕の知ってるドクターは、昼休憩はいろいろなお店を廻って味めぐりをしていると聞く。羨ましい。僕は、どうしてそういう休み方ができないのだろうか?

 

 周囲からは「ストイックすぎる」とよく言われる。

 

 

 

 先日、西城秀樹さんが亡くなられた。63歳だったそうだ。こういう若くして他界される人の話を聞くと、遊びがない毎日を送ってる自分も他人事ではない...と思う。

 

 

 仕事を充実させて少しでも患者さんのために生きるということと、自分の健康や時間(=人生)を大切にするということは両立し得ないものなのだろうか ...?

 

 

 今の自分には、答えが出ない。

 

 

 

 

 

 

 

夏と冬が同居                        2018/5/20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いったいどうなってるんだ?この国は!

 

 

 

総理大臣の見え透いた嘘。

それを隠し守ろうとする官僚や閣僚たち...

 

日大のアメフト部の監督やコーチの嘘。

それを隠し守ろうとする日大関係者たち...

 

 

いったい、この国はどうなってるんだ??

 

この人たちは、あまりにもみっともなくカッコ悪い。

 

 

でも...

 

どうして、自民党の支持率は下がらないんだろう?

どうして、国民はもっと声を上げて怒らないのか?

 

国民まで、事なかれ主義というか、ナアナアになってしまっているのだろうか....??

 

今までも、政治家による不正や不祥事は数多くあったが、今の内閣ほど、レベルが低くどうしようもない状態は例がないと思う。

 

この国全体が...

 

政治家も、大学も、企業も、国民も....

 

どんどん、おかしな方に向かっていないか?

 

 

 

もう、わけがわからなくなってきた。

 

 

 

 

 

 

 

梅雨はそこまで来ている                   2018/5/28

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、通勤途中で...

 

 小さな横断歩道の横に、精一杯黄色い旗を上げてこちらを見ている女の子がいた。

 小さな体に似合わず大きな黄色い帽子。まだ、ピッカピカの赤のランドセル。おそらく、4月に小学校に入学したばかりの一年生だろう。

 

 僕は、ゆっくり車を止めて、彼女が走って渡るのを眺めていた。彼女は、渡り終わった時に、何と、こちらと対向車の方を向いてちょこんとお辞儀をしたのだ。何て礼儀正しい子なんだろう。

 

 むしろ、こちらが通らせていただいてるのに、その子にお辞儀をしてもらうなんて...。

 どこか、申し訳ない気持ちがした。

 

 でも、横断歩道を渡って車に向かってお辞儀をする国なんて、日本以外にあるだろうか?こういう光景に出会うと、日本って素敵な国だな、日本人って素晴らしくカッコイイ民族だなと思う。

 

 この子のような気持ちを、大人の僕たちも失わないでいかなければならないと思う。

 

 

 

 

 

 

山吹き色は好きだ                      2018/6/3

 

 

 

 

 

 

ゆうぐれ

 

横に細長い一切れの雲

 

かすかに...ほんの...かすかに...うっすらとしたピンクを宿して

 

いちにちの終わり

 

いろいろを奥にしまった淡いピンク

 

こんなゆうぐれ時が好きだ

 

名残惜しさと終わる安堵感

 

その淡いピンク色の中には

 

様々な感情が仕舞われていく

 

 

もうすぐ夏だ

 

 

 

 

 

梅雨の中休みに                             2018/6/14

 

 

 

 

 

 

 

史上最強

 

今までずっとサッカー日本代表を見てきました。

 

 今回のサムライブルーは、ワールドカップ2ヶ月前のハリル・ホジッチ監督の電撃解任や直前の親善試合での不甲斐ない成績等から非常に評判が悪い状態でした。

 

 でも、僕は、今回の日本代表は、今までの中でも史上最強のチームだと思います。

 

 とにかく、よくまとまってる。チームワークがすごく良い。攻守のバランスがとれてる。どんな相手でもフレキシブルに対応できる。フィジカルやメンタルな面でもタフ。時に際立っているのは冷静さ。この強いメンタリティは今までの日本代表には無かったものです。

 

 ですから、あのコロンビアに勝ったのも、セネガルに引き分けたのも、決してまぐれではなく彼らの実力だったと思います。あのセネガル戦は勝てた試合だったから悔しいですね。決定機にきちんと点を取れないのは昔からの日本の悪いところですが、今の日本代表は精神力の強さも身につけたので、あのセネガル戦のように先取されても追いつく技をやってくれるのです。

 

 次は、世界ランキング8位のポーランド。でも、今の日本代表なら充分に勝てると思います。

 

 きっちり勝って、堂々と決勝トーナメントに行きたいものです。

 

 

 でも、いつも思うけど、サッカーを応援することで日本全体が一つになれる連帯感はすごく素敵ですね!

 

 

 

 

 

優勝しよう!                          2018/6/25

 

 

 

 

 

なんだかなあ....

 

サッカー日本代表。

無事、決勝トーナメント進出が決まった。

 

でも、なぜ、こんなにモヤモヤしてるんだろう....  

 

情けない。

 

コロンビアがセネガルに勝ってくれたから、イエローカードの差でかろうじて日本は決勝トーナメントに進出することになった。

でも、僕は、最後の最後まで攻めてほしかった。

 

最後、約10分ほどはボールを回してるだけの時間。

こんなのは、僕にとっては闘いじゃない。

やっぱりゴールに向かわないと。

決勝トーナメントに行くことがどのくらい重要か。もちろん、そんなことは僕にもよくわかってる。

 

でも.......だ。

 

僕の感覚としては、攻めて攻めて、攻めてほしかった。リスクを冒しても。

 

それにしても、今回、どうしてこんなに大幅なメンバーチェンジをしたんだろう?

メンバーの半分以上の6人を変えてる。

今までとても良い形で闘ってきたのだから、そのままのメンバーでいくべきだと思った。

 

 

...なんだかなあ。

 

なんか、モヤモヤする試合だった。

 

 

せめて、決勝トーナメントではこんな情けない試合をしないで、泥臭く、男らしく、獣のように闘ってほしい。

 

そして、勝ってほしい。

 

絶対に。

 

 

 

 

 

ガンバレ、日本!                      2018/6/28

 

 

 

 

 

 

『ボストン美術館の至宝展』

 

 名古屋で開催されている「ボストン美術館の至宝展」に行ってきた。東京で開催されていた時は行けなかった。今回そのリベンジを果たした。

 

 ボストン美術館は世界でも最高レベルの美術館。中でも、日本の美術品や印象派の作品が多く収蔵されていることで知られている。

 

 

 

 僕のお目当ては、曽我蕭白の『風仙図屏風』とポール・セザンヌの『卓上の果物と水差し』。

 

 曽我蕭白は江戸中期の画家で、よく「異端の画家」などと呼ばれている。 藝大の卒業論文が曽我蕭白だったので、僕にとっては特に思い入れがある画家。今回日本に来ているこの作品は、蕭白の作品の中でもトップクラスに入る作品で、数年前に来日したあの『雲龍図」と並んで蕭白を代表する作品。

 

 

........いやあ、すごかった。

 

 

 画面向かって左上から怒涛のごとく吹き込む奇妙な形をした突風。それにより、画面右の二人の人物は吹っ飛んでいる。画面中央では、突風に姿形を変えた龍と戦っている男がいるが、その男の表情は戦いを楽しんでさえいるような表情をしている。周囲の木々の葉は、猛烈な風によって激しくなびき吹き飛んでいる。

 

 六曲一雙の画面いっぱいに躍動する力強いエネルギー。

 

 僕がこの作品が好きな理由は、この点に尽きる。

 

 その躍動感やエネルギーは、ただ題材や絵の内容に勢いがあるからではない。絵全体から伝わってくる『目に見えない』パワーのようなもの。それは、紛れもなく、画家蕭白の生きるエネルギーそのものに他ならない。

 

 当時の水墨画の常識をとんでもない表現様式で覆し、本物の絵画とは何か?と問いかけているような作品。同時代に生きた円山応挙の写実的な絵画思想とは全く正反対に位置する画家だ。

 

 僕は、この蕭白の、’常識なんてくそっくらえだ!’という強烈なメッセージが大好きなのだ。

 

 

 

 優れた絵画には、このようなパワー.....言い換えれば「動き(気韻)」がある。

 

 

 

 同じ美術展に来ているセザンヌの静物画(『卓上の果物と水差し』)。これは、蕭白の作品とは一転して、静かに物が置かれたいわゆる静物画。グレーの円形のテーブルの上にレモンが一個。そして、白い皿の上に10個程のリンゴ。そして奥に水差しが置かれている。題材としては静かな世界。先ほどの蕭白の絵がダイナミズムで音まで感じさせる作品であるとすれば、セザンヌの作品はひたすら静かである。

 

 しかし、この絵には「動き」がある。「音のない静かな動き」。もちろん果物や水さし等はじっとしているはずなのだが、それぞれの形や位置関係、色など絵から受け取れる様々な要素によって「動き」生まれ、そこから心地よい緊張感が生まれているのである。

 その「動き(気韻)」はモチーフそれぞれの個性を醸し出し「表情」になる。そして、それぞれのモチーフが自己主張し始める。一番奥にある地味な色をした水差しでさえ、「俺だって目立ちたいんだ!」って言ってるかのようだ。ここでの主役は果物ではない。果物も、皿も、テーブルも、水差しも、テーブルにかかっているクロスも、背景の壁も...その全てが主役なのだ。

 

 特に、この作品は、モチーフの形や線が絶妙に共鳴し合い、色彩と合わさって先述したような「動き(気韻)」や緊張感を生み出している。背景の壁?の左上から右下に流れる黒い線も画面全体に緊張感バランスをもたらしている。

 

 こうやってよく見ていくと、セザンヌは意図的か無意識かわからないが、とんでもなく計算し尽くしてこの作品を描いたことがわかる。

 

 

 蕭白やセザンヌに限らない。優れた絵画作品には、必ず「動き(気韻)」がある。それは、絵画にとってとても重要な要素で、その気韻が観る人の心を動かすのだ。

 

 

 

 ああ....

 やっぱり、絵っていいなあ....

 

 

 

 

 

 

ひさしぶりの心の洗濯                      2018/7/1

 

 

 

決勝トーナメント1回戦〜ベルギー戦〜

 

きっと勝てる。

 

今の日本代表なら、やってくれる。

 

 

 

 

 

 

夢に向かって                       2018/7/1

 

 

 

悔しい!!!!!

 

日本は、決勝トーナメントでベルギーに逆転負け。

 

 日本は強かった。守備も攻撃もバランスが取れていて、あの世界ランキング3位のベルギーを崖っぷちまで追い詰めた。少なくとも試合開始後70分くらいまでは2-0で勝っていた。それが、まさかの逆転負け。

 

 

 ベスト8が、もうあと一歩で手に届くところまで来てくれていたのに逃げて行ってしまった。

 

 戦いは互角だった。いや、むしろ、ベルギーの破壊的な主力メンバーに自由な仕事をさせなかった点では、日本の方が優っていた。

 あの、原口の1点目のシュート。乾の2点目のシュートはいずれもワールドクラスのシュートだった。特に乾のシュートは無回転でゴール右隅に突き刺さるスーパーゴール。改めて、日本の個々のレベルが上がっていることも世界に示した。

 

 でも、欲を言えば、2点先取した後のゲームマネジメントをもう少し守備的になれなかったのかな?と思う。攻めながら守るというバランスがもう少し取れていれば、十分勝てた試合だったんじゃないか?と悔やんでしまうのは僕だけだろうか?

 この点は、まだまだ経験値が低いのかもしれないし、それが「世界の壁」なのかもしれない。その点、ベルギーは試合巧者だった。

 

 

 本当に、もう少しこの素晴らしいチームの試合を観ていたかった。どこまでいけるか観たかった。できればブラジルと闘ってほしかった。もしかしたらブラジルに勝ったかもしれない。

 

              本当に悔しい!

 

でも、今の日本代表は素晴らしい。

試合中、たくさんの夢を見せてくれた。

 

 

だから、胸を張って堂々と帰ってきてほしい。

世界に、あっと言わせる素晴らしいプレーを魅せたのだから。

 

 

 

 

 

 

ありがとう、日本代表!                     2018/7/3

 

 

 

 

 

 

 

 

怖いこと

 

サッカー日本代表が凱旋した。

 

 空港で開かれた記者会見で、長谷部主将が語った中でこんな言葉があった。

 

 「無関心が一番怖いです。だから、サッカーにもっと関心を持ってもらって、批判でも良いからしてもらいたい」

 

 

 その言葉を聴いてなるほどと思った。今の日本全体に「無関心」が蔓延しているのではないか?と。政治にも、社会にも、隣人にも....etc

 

 一国の首相をはじめ政治家や官僚たちが好き勝手なことをやっても、国民の支持率は低下しない。なぜ?

 駅のホームで女性が連れ去られようとしていても誰も助けようとしない。なぜ?

 高齢者が一人で亡くなっているのに気づかない。なぜ?

 

 皆、この国の将来やそれを実現する政治や社会、そして本当は自分を助けてくれる周りの人たちにあまりにも無関心すぎるんじゃないか?

 言い換えれば、正義、約束、思いやり、優しさ、そして夢...そういったものに対して無関心になってきているのではないか?

 

 とりあえず、今さえよければいい...

  飲み食いするときの「とりあえずビールで...」と言うように、何も考えなくてもいい安易なその場しのぎ的思考...「とりあえず思考」。無難、無関心....

 

 そこには、自分が関わりたくない、関わらないという気持ちが根底にある。関わらなければ、巻き込まれないし傷つかないで済むからだ。

 

  SNSがこんなに普及するのも、関わりを必要最小限にすることによって傷つかずに孤独を埋めようと考える人が多いからではないか?

 昭和30年〜50年代に流行ったような「熱血」的あり方は、今の人たちには懐古的なのだろう。この社会は温度を好まない。昔、「熱いのはお好き?」という映画があったが、今では「熱いのは嫌いよね?」だ。できるだけ温度がなく薄いのが好きなのだ。つまり、「熱い」のも「厚い」のもダメなのだ。

 

 

 でも不思議だ。孤独なのに関わろうとしない。関わらなければ孤独は癒されないのに。

 

 関わりは当然リスクを伴う。孤独が癒されるかもしれないが、逆に嫌な思いもするし傷つくこと(マイナス面)もある。現代社会では、そのマイナス面を回避することを重視してしまっているように感じる。できるだけ安全に、傷つかず、簡単に孤独を癒せればと考えている人がどれほど多いことか。相手が誰なのかわからないのに会話のやり取りをするSNSの出会い系サイト、ツイッター等はその最たるものだろう。

 

 そこには、生々しい人と人の関わりはない。表面的で深みのない関わりがあるだけだ。そんな関わりで孤独が癒されると勘違いしている人が多い。

 もちろん、SNSをすべて否定するつもりはない。実際、様々な悩みを抱えている時に、 SNSでのやり取りで心が救われた人もたくさんいるだろう。

 ただ、僕が言いたいのは、本当の信頼や思いやりは人と人の生々しい関わりの中でしか育たないし生まれないということ。深い信頼や思いやりがなければ孤独は癒されないだろうから。

 

 先日、アメリカで子供とSNSとの関係に関する論文が出された。それによると、ゲームやSNSに接している時間が長ければ長いほど、「幸せ」と感じる子供の数が減るという。それゆえ、サークル活動や遊び等を通して、直に接する(生で関わり合う)ことを推奨している。

 

 人との関わりの中で嫌な思いをすること...それは、思いやりや、優しさ、正義といった自分のプラスの心を育てるためにとても大切な経験。

 

 でも、今の子供たちや若者に、無関心や人との関わりを避けようとする傾向が強いのを見ると、この国の将来が不安だ。

 

 

 

 サッカーW杯中、パブリックビューイングで、皆が一緒になって日本代表を応援する様子が何度も報道された。

 

 僕には、その光景がせめてもの救いに思えた。

 

 

 

 

 

 

サッカーW杯が毎年あったら良いのに               2018/7/8

 

 

 

 

 

 

 

 

平和、豊かさと幸福感について

 

昨日、オウム真理教の教祖とその弟子たち計7名の死刑が執行された。

私は、この場で死刑に関する是非を問うつもりはない。

 

 

 それよりも、オウム真理教の事件とアルカイダを中心としたテロが同じような原因から発生したのではないか?と感じるのだ。

 それは、平和と豊かさだ。

 

 オウム真理教が台頭したのはバブルの時代。日本中が豊かになり札束がと飛び交っていた時代だ。ちょうどその頃、自分の生き方に疑問を感じた若者たちがオウム真理教に入信しあの事件を起こした。

 アルカイダも、イスラム教信者ではないのに、世界中の特に先進国から若者を中心に集まったそうだ。

 両者とも、先進社会、豊か、平和という共通のキーワードが浮かんでくる。

 

 現代社会は物が豊かになり、ほとんどのものは手に入るようになった。どこの家庭にもテレビや洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ、洗浄機付トイレ、パソコン、スマホ、自動車がある。なんでも揃ってる。あの、高度経済成長時代だった昭和30年代から40年代とは全く違い、豊かな生活ができている。しかも、平和だ。

 

 でも、社会を見てると元気がない。夢がない。こんなに物が溢れていて平和なのに。自殺者の数も多い。なぜなんだろう?

 あの昭和の頃の方が、まだ社会全体に活気があったし夢があった。子供たちに将来何になりたい?と尋ねると、必ず、野球選手とかスチュワーデス...etcと言う答えが返ってきた。自殺者も今よりはずっと少なかった。

 ところが、今はどうだろう?一番人気のある職業は公務員だそうだ。ここにも、「無難主義」が見え隠れする。

 

 

 

 人間は、物があって生活が豊かになるだけでは幸福感を感じられないのだろうか?

 

きっとそうだろう。

人は、物があっても平和でも、心は満たされないのだろう。

 

 だから、オウム真理教に幸福になるための真理を見つけるために入信した若者が多かったのだろうし、新しい価値観を求めてアルカイダに入った多くの人々がいたのだろう。

 

 このように考えてくると、人間は物が不足しているとか平和ではないような危機的な状況が身近にないとダメになってしまうように見える。

 物がなければ物以外のものに幸せを見出すだろうし、平和でなければもっと他人と協力し合う形が生まれてくるのではないだろうか?

 

 もちろん、生活が豊かになることや平和であることを否定するつもりは毛頭ない。しかし、人間は、ある程度サバイバル的な状況に置かれないと大事なものを見失ってしまうのではないか?と感じてしまう今日この頃だ。

 

 

 

 

 

平和ボケの日本                         2018/7/8

 

 

 

 

 

 

未曾有の災害

 

今回の豪雨で、西日本は大変なことになってる。

 日増しに増える犠牲者の数。災害に見舞われた方々やそのご家族、そしてまだ行方不明になられている方々のことを思うとものすごく胸が痛むしつらい。

 

 こんな緊急事態なのに、安倍首相は一体何をやってるんだろう?全然出てこない。陣頭指揮をとって、自ら自衛隊のヘリでも何でも使って現地に飛ぶとかしないのだろうか?

 「国民の生命と財産を守る」なんてかっこいいことを言っておきながら、大災害が起こっても動かない。有言不実行の首相。今回の豪雨による被害状況が刻一刻とテレビで報道されていても、安倍さんは自民党内の懇談会で酒を酌み交わしていたというニュースがあちこちの新聞社からされている。

 

 モリカケの問題といい今回の初動の遅れの問題といい、こんな信用できない首相に日本の政治を任せておいていいのだろうか?

 

 

 

 

最近、安倍さんが映るとTVを消す                2018/7/9

 

 

 

 

 

 

久しぶりの東京


昨日から、クリニックをお休みさせていただいて東京に来ている。
産業医の研修会に参加するためだ。

   5年に一度の資格更新のための研修会。
   本当は明日から2連休だったのだが、産業医の資格更新期限が9月なので、今回は休み返上で上京した。この3日間の研修に参加すれば、5年間で取得しなければならない20単位が一気に取れる。コツコツ努力するのが苦手な僕にとってはありがたい。そのかわり、朝から夕方までびっちり講義が詰まっているが。

   参加者は200名程。その8割は実際の産業医の実務経験がないと知って少し驚いた。でも、講義はとてもハイレベルかつ充実していて、連休にも関わらず参加する先生方に配慮してか、講師の方も楽しく聴講できるように工夫して下さっているのが伝わってくる。講師の先生方だって、お休みの日に講義をされるのだからお疲れ様なんだけど。

   しかし、東京は暑い(汗)。今日の最高気温は37度。人の体温よりも高い。流石に、クーラーの効いた会場から外に出ると、ムッとした空気が身を覆い尽くし、途端に汗が吹き出る。

  
   でも、早々とホテルに戻り、ちょうど日が沈む夕暮れの景色を大好きなボサノバを聴きながらボーッと眺めていると、のぼせそうになって歩いていたしんどさも街の喧騒もいつのまにか過去のものになっている。
   眼下にはこんもりとした森。そこから目を水平に移すと高層ビル群。そして、やや左を眺めると真っ赤な太陽が、時に雲の後ろにかくれんぼしながらゆっくり沈んでいく。その先の黒いシルエットの山並みは秩父山系だろうか。
   そして、お日様が沈んでしまうと目上の空の雲の端がにわかにピンクに変わり、一日の最後の終わりを名残惜しさと安堵感を伝えるように輝く。

   僕は、この瞬間が好きだ。

   その一瞬のエンディングセレモニーが終わると夜の帳が下り、今度は摩天楼に少しづつ灯が灯り第二のステージが幕を開ける。一口に「灯」といっても様々な灯りがある。オフィスビルのクールな白色光から民家の暖かい昼色光。その光の饗宴にビル群の紅い点滅光が彩りを添える。

   東京の楽しみはいろいろあると思うが、誰にも邪魔されない自分だけの空間で、大きな窓ガラスを通して移ろいゆく街の様子を眺めるのが僕にとってはこの上ない楽しみだ。まるで、窓枠に囲まれたダイナミックな絵画を観ているようだ。

   大自然と人工物が織りなす「展覧会」を鑑賞しながら、一日の疲れが少しづつ消えていく。
   
   曲はいつのまにかラフマニノフのピアノコンチェルトに変わっている。





たまには東京もいいなあ                                                2018/7/14






混沌

東京は不思議な街だ。
今回久し振りに訪れて、改めてそう思う。
   車窓から眺める大通りに面して、所狭しと立ち並ぶ無数の店また店…。看板の様々な色や形。そこには、これっぽっちも秩序というものが感じられない。さながらモザイク絵画か。あの、太陽光を少しでも浴びようと競い合って必死に枝葉を伸ばしている植物のようにも見える。その中に、何の前触れもなく突然、マンションの入り口が口を開けていて、人が吸い込まれるように消える。
  いったい、この街のこの無秩序さは何なんだろう?
  あの、ベルギーやストックホルムのような整然とした街並みとは次元を異にする光景だ。
  
  しかし、この無秩序、混沌さが、また良いのだ。なぜか安心するのだ。
  たしかに、都市景観的な観点からすれば美しくないのだろうが、エネルギーを感じるのだ。
  一方、神社仏閣といったいわゆる聖域は、むしろ削ぎ落として削ぎ落として残った先にあるシンプルな空間である。東京の街並みが「動」であるなら、後者は「静」であり、「混沌」に対して「秩序」が存在する。
  
    芸術の世界でも、例えば、茶道、花道などは、華美さや無駄を省いたところにある、侘び・さびの美しさを追求する。そこには、奥ゆかしさや謙虚さを尊ぶ昔ながらの日本人の価値観が寄り添う。
    そもそも、日本人は、「動」よりも「静」にやすらぎを求めるところがあるのではないか?
  しかし、少なくともこの東京の街並みを眺めていると、そのような価値観は微塵も感じられない。
  でも、ここに日本の面白さがあると思うのだ。
 
  「動き」と「静」。「混沌」と「秩序」。
 
  二つの全く正反対の価値観が共存する世界。
  この、アンビバレントさが日本の文化のひとつの魅力だと思う。
 
  奥ゆかしさと貪欲なエネルギーが共存社会。いや、それらは、それぞれを補完する。ちょうどコインの裏表のように。
 
  混沌としたこの東京の街を観ながら、日本人は意外としたたかな民族なんじゃないか?と感じた。
 
 
 
 
 
今日も酷暑                                                                 2018/7/15
 
 
 
 
 
 
 
 
 

夏目漱石


研修会の会場のすぐ近くに、夏目漱石の旧宅があるのを見つけた。

  大通りから一歩入った閑静な住宅街の一角にそれはあった…といっても、旧宅がそのまま残っているわけだはない。今は他の建物が建っていて、旧宅は愛知県犬山市にあると碑文には書かれていた。

  塀の上を歩く猫のオブジェが、かろうじて、漱石が「我輩は猫である」を執筆していたことを伝えようとしていた。
  時折、旧宅跡の前を通る細い通りを車が通る。人も通る。自転車も通る。誰も気にかけようとはしない。その碑文の前にボーッと立ってる自分がどこか浮いた存在のように感じながら、一生懸命、漱石が暮らしていた頃の情景を想像してみた。でも、時折通る人や車に気がとられて、なかなか情景が浮かばない。

  こうやって時間が、歴史が、思い出が過ぎていくのか…
  人の人生、時間というものは何と儚いものか。

  しかし、作家や芸術家は羨ましい。作品という形で、後世に自分の生きた証を残せるのだから。


  僕は、どういった形で自分が生きた証を残せるのだろう。






「こころ」をもう一度読んでみようかな                         2018/7/15










根本的なところが....

 

揺らいでいる。

 

まずは、自然。

世界的な規模で、何かおかしいことが起こっている。

 温暖化。それによる、超高温。干ばつ。今年の夏の暑さは尋常ではなく、今までに経験したことがないものだ。この信州が避暑地ではなくなってしまっている。毎年、「何十年ぶりの...」とか「百年に一度...」とか、「観測至上始まって以来の記録的な...」と言った報道を聞く。明らかに大変なことが起こっている。カリフォルニアの51度なんて言う気温は、もう別の惑星のようだ。

 これからも高温・極寒の状況は続くだろう。台風は巨大化し、スコールのような集中豪雨が発生し、冬は冬で大雪、超低温が発生するだろう。

 もう、日本は温帯気候とは言えなくなっていくのではないか?むしろ、亜熱帯化してきている。ある御高齢の方がこんなことをおっしゃっていた。「日本は、冬と夏しかねえなあ」「おりゃあ100近いけんども、生まれてこのかたこんなに暑い夏は初めてじゃ」

 ...約一世紀、こんなに暑夏はなかったということか...(汗⬅︎冷や汗)

 

 日本は、古来から四季折々の風情が楽しめることで豊かな文化を育んできた。春や秋といった激しい季節に移行する時期。この「うつろいゆく」季節があったからこそ、僕たちはそこで次の時期への準備ができる。また、その「うつろい」の中で、様々な動植物が生きる力を与えられ、僕たちに感動をもたらしたくさんの芸術を生み出した。日本の美意識は、春や秋といった穏やかな「うつろい」の時間があったからこそ一層輝いたのではないか?また、このような温暖で穏やかな気候が、優しくて友好的な日本人の国民性に大きく寄与したのではないか?

 

 しかし、これからは、そのような四季の「うつろい」を感じられなくなっていくのかもしれない。それは、とてもとても寂しいことだ。

 

 また、自然災害にも備えておかなければならない。西日本を襲った集中豪雨のような災害は、国土面積が狭くて平野が少ないこの国ではどこで起こってもおかしくない。西日本で災害に遭われた方々は本当にお気の毒だが、今災害が起こっていない地域でも、決して対岸の火事ではないのだ。

 また、地震や火山噴火と言った災害の危険性も指摘されている。

 

 

 

次に、国や組織の信頼。

これも揺らいでいる。

 

 安倍首相の「森友・加計学園問題」。自公民による数に任せた国民無視の法案強行採決。官僚による公文書改ざん。日大アメフト部の恣意的な反則指示問題。日本ボクシング連盟会長による審判不正指示問題。東京医科大学の不正入試・入試操作問題。それに、様々な企業の検査不正問題....

 

 国のトップをはじめ、様々な人たちによる信頼を裏切る行為が、連日当たり前のように続々と出てきている。また、昨日、自民党のある女性議員が、同性愛者に対して「生産性がない」と発言したことが報道されていた。

 

 この国は平和ボケしていないか?

 

 あまりにも平和でそこそこ豊かになってしまったために、大切なことを忘れてしまったのではないか?数の力や権力におごって、人に対する思いやりや正義を失ってしまってはいないか?

 

 

 このように、今僕たちは、自然も人も根本的なレベルで揺らいでいる。

 そして、そこから、漠然とした不安が常に生まれている。その不安が、国全体を霧のように覆っている。そして、その霧は、人々の心の中にも確実に忍び込んできている。

 

 夢が欲しい。

 希望が欲しい。

 

 この国が夢や希望に満ち溢れるようになるためにはどうすればいいのだろう?

 

 少子高齢化と長寿化によって人口は減り、これからの日本は若者が少なくなり高齢者の割合が増える年齢構成になる。国を牽引していく若者が減って高齢者が増えてしまったらこの国はどうなるのだろう?まだ、北欧のように高齢者に対する福祉制度が充実していればなんとかなるのだろうが、福祉制度が貧弱な日本ではこれから大変なことが起こってくるのではないか?実際、もうその兆候は出始めている。各老健施設では求人しても若者たちが応募してこない。また、就職してもすぐやめてしまう。だから、施設のスタッフも高齢化が進んでいる。まさに、施設内の「老々介護」だ。政府も、70歳までは働けと言う。

 

 最近こんな言葉をよく耳にするようになった。「これ以上長生きしたっていいことないな。だって、長く生きたってお先真っ暗だから...」

 

 まさに、「人に優しくない」日本の政治や貧困な福祉制度のあり方を反映した言葉ではないか?

 

 

 少なくとも、今のままでは....何もしなければ、この国はどんどん廃れていってしまうだろう。

 

 

 

 

 物は豊かになり、生活は50年前に比べてはるかに便利で快適になったのに、なぜ、僕たちの心はこんなに不安でモヤモヤしているんだろう?

 

 それは、自然の変化はさることながら、人としての大切なものや人との絆を失ってしまったからではないだろうか?

 

 正義、謙虚、約束を守ること、愛情、思いやり、優しさ、気遣い、強いものが弱い者を守ること、人と直接つながること、人のために何かすること、自然を大切にすること...

 

 そういったものを....

 

 

 

 

 

 

 

夏はものすごく暑く、冬はものすごく寒い                  2018/8/5

 

 

 

 

 

 

 

 

生きる辛さと生きる歓び

 

 毎日、朝目覚めると、「ああ...また一日が始まる。起きたくないなあ」と思います。特に週始めの月曜日の朝は最悪です。

 

 実は、起きる前から、すでに闘いは始まっています。朝4時頃から眠りが浅くなり、夢と現実の間を行ったり来たりし始めます。「あと1時間半くらいで起きなきゃ」と夢の中で考えたり(感じたり)しています。その頃から動悸が始まります。左を下に横になっていると、心臓の拍動が妙に気になります。もうその頃から緊張しているのです。一日が始まることへの緊張感。発汗もあり交感神経が興奮しているのがわかります。ですから、最近はギリギリまで熟睡していて目覚まし時計の音で目覚めるというようなことはまずありません。

 

 ところが....いざクリニックに来てしまうといつの間にかモードが変わっています。最近は書類が多いので、仕事場について花木に水をやってからすぐに書類との格闘が始まります。精神科は、他科と比べても書類が多い科です。休職・復職のための診断書、自立支援診断書、手帳や年金の診断書、傷病手当診断書、保険関係の診断書、免許更新のための診断書、保育困難の診断書、猟銃所持のための診断書、訪問看護指示書、診療情報提供書etc....

 書いても書いてもまた増える「わんこそば」状態で減ることはありません。ここ1年くらいの間で、全く書類を書かなくてよかった日がさて何日あったでしょう?せめて、書類を書かなくても良くなればもう少しゆったりと診療できるのにと思うことはしばしばです。

 

 書類を書き始めて30分くらいするとスタッフがやってきてクリニックの掃除を始めてくれます。そして診療開始。患者さんは予約時間よりも早くいらっしゃっていることが多いので、いつも開始時刻よりも15分早く始めます。 

 でも、診察を始めるとさらに自分の中の何かが変化するのを感じます。クリニックに到着した時のモードとは違う変化です。自分が生き生きしてくるのがわかります。あんなに起きるのが嫌で一日の始まりが苦痛だった自分が元気になっていくのがわかります。

 

 これはどうしてなんだろう?もちろん、子供の頃からなりたかった医師としての仕事についているという喜びはあると思います。でも、それは自分が元気になる理由の本質ではないと思います。じゃあ何が僕を元気にさせるのか?それは、患者さんとのやりとり〜関わりによってパワーをもらうからじゃないか?と思うのです。

 

 患者さんとお話をさせていただいていると、励まされたり、学ばされたり、また、時には悲しい体験で一緒に泣いたり、楽しくて面白いお話で一緒に笑ったり、嬉しい出来事で『やッタア!」となったり....。そして、病気が良くなっていく実感が得られた時が何よりも嬉しい。

 

 こういう、診療を通して患者さんと関わらせてもらうことにより、自分の心が自然に元気になっていくのだと思います。それに加えて、ささやかでも人のために力になれているのではないか?という感覚が、自分を一層元気にしているのだと思います。

 

 生きるとは何か?存在するとはどういうことか?

 人間が、昔から哲学や宗教という形で問い続けてきた命題です。でも、未だに、この命題の答えは明確にはなっていないように思います。それは、命題の答えそのものが個人々々で異なり普遍的なものではないということもあるでしょう。いや、そもそも、この命題自体がナンセンスなのかもしれません。なぜなら、生きる「意味」や存在する「意味」なんて最初からないのではないと思うからです。もし答えがないのなら、この命題を追求すること自体が無意味になりますよね。

 

 

 僕たちは、偶然この世に生まれ生きている。存在しているのも偶然である。

 ほんの一つの出来事が足りなかったら僕たちはこの世に生まれていなかっただろうし、今この瞬間も存在していないでしょう。

 ですから、生きているということに「意味」はないし、存在しているということにも「意味」はないと思うのです。

 

 人間は思考し言語を操る生物です。フランスの哲学者パスカルは「人間は考える葦である」と言いました。そのように、人間は何でもかんでも名前をつけたり理屈を作ったり「意味」を見い出したがります。

 でも、この世の事象で、どのくらい「意味」や「原因」がわかっているものがあるでしょうか?例えば、誰もが経験する頭痛の原因もほとんどのことはわかっていません。

 

 もし、「わかっている(と勘違いしている!?)」「意味」や「原因」があるとすれば、それは人間のおごりであり、自分が安心したいがための〜自分の存在不安をかき消したいがための〜屁理屈なんじゃないか?とさえ感じます。生きていることや存在していることの「意味」づけができれば、少しは生きるという不安が軽くなるんじゃないか?といった具合に。

 

 

 人間以外の動物や植物たちは、「意味」や「原因」なんか気にとめないで生きているように思います。彼らは、その時その場の状況をありのまま受け入れて、できるだけそれに適応して生きている。あるがままに生きている。その純粋無垢な姿が、人間の心を打つのではないでしょうか?見方を変えれば、「意味」や「原因」を常に考えながら生きてさらに不安や恐怖を生み出している僕たちからすると、他の生物たちがうらやましく見えるのかもしれません。

 

 

 ちょっと話が逸れてしまいました。

 

 仕事中に疲れてきたり迷いが生じたり不安が強くなったりした時は、診察室にあるパキラ(観葉植物)に目をやります。彼(彼女かな?)は、僕が持ってきた鉢に植わっています。日当たりも決して良くない場所で、一生懸命窓から入る日の光に向かって葉っぱを広げています。その生きるために生きているひたむきな姿に癒され励まされます。そうすると、俺も頑張らなくっちゃと感じます。

 

 なぜ生きているんだろう?とかなぜいるんだろう?とか考えないようにして僕は毎日生きています。

 この世に生まれてきてしまった以上、無数の自分の体の細胞が自然に生きようとしている以上、それを受け入れて生きるしかない。仕方のないこと。それを、自分の「頭=理屈」で勝手に変えてはいけないと思うのです。なぜなら、僕たちの頭は、常識やルールといったしがらみに支配されがちだからです。むしろ、頭を使いすぎるから不安や苦しみがもっと強くなるのです。

 

 

 この世に生を受けたから生きる。今、目の前にやるべきことがあるからそれをやる。やることがなければ探しやれることをやる。うれしければ喜び悲しければ泣けばいい。頭が痛ければ原因なんて考えたってしょうがない。答えは出ないんだから。だから、頭が痛いなりに生きる。

 

 

 全てを「受け入れる」覚悟を持つこと。それは自分に与えられたものだから。必要だから与えられているのだろうから。そうやって生きる。

 

 生きるために生きる。最後まで生き抜く。医師としても一人の人としても。

 

 

 その覚悟には勇気がいるし不安です。だから、人との関わり...特に僕にとっては患者さんとの関わりでエネルギーをいただくことが、勇気を奮い立たせてくれるし不安とうまく付き合わせてくれているのだと思います。

 

 

 今、日曜日の午後6時を過ぎました。また明日からのことが頭をよぎり交感神経が興奮してきています。緊張してきたし憂鬱です。でも患者さんと会うのも楽しみです。

 

 複雑で必ずしも心地よい感じではないけれど、これも生きるということですね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

今日も暑かった                           2018/8/5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、夜中の3時半

 

寝苦しくて起きてしまった。

 

 今年の暑さは異常だ。

 毎年、暑くて窓を開けて寝る日は数日はあった。でも、そういう夜でも朝方になると冷えてくるので、逆に寒くて窓を閉めるのが通例だった。

 しかし、今年は違う。窓を開けて扇風機をかけても、外気は澱んでいて一向に涼しくならない。今晩も寝苦しくて起きてしまった。こういう時は、暑いのを我慢して寝ようと頑張っても悪循環になって精神衛生上良くないので、今、起きてこのブログを書いている。

 

 「ホットハウス・アース」

 

 聞きなれない言葉かもしれない。先日の6日、アメリカ科学アカデミー紀要という研究雑誌に、スウェーデン、デンマーク、オーストラリアの研究者たちが地球温暖化に関する研究についての論文を掲載した。それによると、現在の地球の平均気温は、産業革命期に比べて1℃上昇しているそうだ。地球温暖化対策である「パリ協定」は、その気温上昇を1.5℃未満に抑えるという趣旨のものだが、現在の対策だけではその目標は達成されないだろうとその論文は警告している。

 もし、これ以上平均気温が高くなり産業革命期に比べて2℃上昇すると、北極・南極の氷が溶けて、海面が10m〜60mも上昇するそうだ。そんなことになったら、バヌアツのように海中に水没する国が出てくるし、東京のウオーターフロントなども住めなくなるだろう。今、2年後の東京オリンピックに向けて東京湾に面した高層マンションが人気のようだが、「レインボーブリッジが綺麗ねえ」なんて悠長なことを言っていられなくなるかもしれない。さらに、干ばつや山火事といった二次的な災害が世界的規模で起こる。

 

 今、僕たちの地球は「ホットハウス・アース」...つまり、地球全体が温室のようになっていて気温が上昇し続ける状態になっている。

 

 それが事実なら、今年のような異常に暑い夏は一時的なものではなくこれからも続くだろう。日本から四季は消え、亜熱帯のようになっていくのではないか?あの軽井沢でさえ30℃を超えているそうだ。この信州も、もう避暑地ではなくなるだろう。台風も巨大化し発生率も高くなるだろう。巨大な竜巻も起こるだろう。西日本を襲った集中豪雨は、日本中どこで起こってもおかしくなくなるだろう。そうなれば、河川の氾濫や土砂崩れ、土石流などの自然災害ももっと起こってくるのではないか?

 

 穏やかな気候に恵まれた日本。そして、そこから僕たちは様々な恩恵を受けてきた。しかし、その幸せが今脅かされ始めている。人間が自然を破壊し続けてきたために。人間のおごりや欲望が、今この地球という天体を破壊しようとしている。

 

 一度気温の急激な変化によって生態系が破壊されると、その影響は負の連鎖としてどんどん拡がり、地球には住めなくなってしまうかもしれない。今回の「ホットハウス・アース」の研究報告は、従来SFとして考えられてきたことが現実に起こり始めていることを警告しているのだ。しかもそれほど遠くない将来に。

 

 今こそ僕たちは、もう一度自分たちの生活や生き方を見直し、自然に対して謙虚にならなければいけないのではないだろうか?

 

 

 

 

 

 

夜が開けてきた                         2018/8/11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内に向く眼

 

今、日本も世界も自己中心的な状態になってきていないか?

 

 アメリカは、オバマ政権までのグローバルな視野からの外交・経済政策から、トランプ政権に変わってから、保護主義(ます他国よりもアメリカの利益を最優先すること)政策に転換した。昨今の、中国との関税の掛け合いによる貿易戦争がそれを象徴している。

 

 

 この地球という繊細で壊れやすい天体が、二酸化炭素による温暖化やオゾン層の破壊等によって瀕死の状態になっている....

 そんな緊急事態なのに、我々人類はなんと悠長なことをやっているのだろうか?自分の国の言葉から考えたいたら、この地球はどうなってしまうんだろう?

 今の人類を見ていると、目先のことばかり考えて滅亡に向かうことを良しとしているようにしか見えない。

 

 

 NHKの大河ドラマで「西郷どん」をやってる。今、坂本龍馬、桂小五郎、大久保利通、勝海舟等が出てきて大変面白い。

 ドラマを観ていて改めて思うのは、この幕末の頃は、日本の将来のことを考え自分の命を賭けていた人達がいかにたくさんいたかということだ。皆自分の利益を考えるのではなく、日本の将来を考えていた。ずっと鎖国を続け、「世間(世界)知らず」だった小国日本が、列強の世界の中でいかに誇らしく堂々と生き残っていけるか.....。それを、真剣に考え行動を起こしていた人達....それが、幕末の志士達だった。しかも彼らは若かった。ほとんどが20代の青年たちだ。若いにもかかわらず、彼らには自分の命を賭してでも成し遂げようとするポリシーと信念があった。

 

 ところが、今の政治家や官僚はどうだろう?日本の将来を真剣に考えている人たちがどれくらいいるだろうか?日本が、これから世界の中でどういう立ち位置で生き残っていくべきか....そのポリシー(プリンシプル)を持ったトップがどれくらいいるだろう?

 僕には、自分たちのちっぽけな利益しか考えていないように見える。

 国民の方に向かない眼を感じる。

 国外にも向かない眼を感じる。

 人類や地球といった広い視野を持てない内なる眼を感じる。

 

 それは、日本だけではない。先述したように、世界中にその「内なる眼」を感じるのだ。こんなことで、僕たち人類は生き残っていけるのだろうか?

 

 人類が生き残り地球が穏やかで包容力のある天体であり続けるためには、「外に向かう眼」が必要不可欠だ。

 

 

 今、そのようなでっかい視野を持って揺るぎないプリンシプルを発信しながら行動する政治・官僚がいないのはなんと悲しく情けないことか!

 

 政治家・官僚に期待できないのであれば、国民一人々々がでっかい視野を持ちプリンシプルを発信していかなければならないのではないだろうか?

 

 

 

 

もうこの国の政治はダメだよ                 2018/8/26

 

 

 

 

 

 

うつろい

 

小さな ふんわり シャボンのような 白い雲

サーっと ほうきではいたような 筋雲

 

夏さんと秋さんが 仲よくお散歩

 

ススキの穂が揺れる

あざみの赤も一緒に

 

秋さんがいばり始めてる

 

 

 

最近

 

子供の頃の映像がよく浮かぶ

 

あの シャボンの雲のように ゆっくり 浮かぶ

 

 

大きなお月様 ススキ お団子 コオロギの音

 

黄金色の稲穂たちが まん丸い お月様とこんばんは 

 

 

その映像は 皆どれも切ない 切ない  切ない

 

 

 

この瞬間も 確実に 秋になってゆく

 

 

 

 

 

 

 

現れては消え 現れては消え                   2018/8/26

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見える 見えない

 

大切な存在を失った

 

もう二度と見ることはできない

触れることもできない

何か ぽっかり穴が開いたような

心はそんな感じで

でも それがいた場所を いた時と同じように無意識に見てしまう

 

 

僕たちは この世の役割を終えたらどうなるのだろう どこへ行くのだろう

肉体は滅びても魂は残る

僕はそう信じてる

 

 

水は 氷 水 水蒸気 気体 と姿形を変える

氷や水(液体) 水蒸気の状態では目に見えるが 気体の状態になると目に見えない

でも 水は存在する

 

僕たちは 目に見えたり触れられたりといった 五感で感じられるものを「在る」と認識する

だから 五感で感じられないものを信じるのは難しい

 

でも 五感で感じられなくても「在る」ものは「在る」のだ

 

 

僕たちの五感なんて 所詮 自分勝手で曖昧で極めて限定的なものだ

 

この世の目に見えるものは そのような状態の「在り方」であって

全てではない

あるステージの「在り方」なのだ

 

この世から見えなくなっても 次はきっと 別の「在り方」のステージに移る

そして 魂は存在し続ける

 

僕は そう確信している

 

そう考えてみたら 少し心が軽くなった

 

 

ほら すぐそこで 気持ちよさそうに 寝てるよ

やっぱり ちゃんと来てくれた

 

 

 

 

 

 

 

 

ロビンよ永遠に                         2018/10/18

 

 

 

 

 

 

 

目に見えないものの大切さ

 

大切なものを失って

 

目に見えないものがいかに大切か 日々教えられている

 

僕たちは 目に見えると安心する 「あ、今日もいる」と

 

でも、その安心は 時として 想い焦がれるという気持ちを隠してしまわないか?

 

目に見えないから 想い焦がれる

目に見えないから より心が頑張って 無くしたものの心と繋がろうとする

 

目に見えないということが 目に見えていた時以上に 心の結びつきを強いものにする

 

そうではないか?

 

 

大切なものは

その魂は 今どこにいるのだろう?

それは目には見えない 

でも 心は感じる 「常に一緒にいる」と

 

肉体が滅んでも魂は残る

その魂は 僕たちの想像力をはるかに超えた存在の仕方をするんじゃないだろうか?

 

魂には形がない 

だから 

おそらく 自由自在に存在し得るのだろう

 

魂は無常の中の一部として 

形がある状態で存在していた時以上に 

自由に存在しているのではないだろうか?

 

魂は 僕たちの心の中にも スッと入ってきてくれるのだ

 

 

だから

 

目に見えないからといって 悲しんではいけない

触れられないからといって 寂しくなる必要はない

 

なぜなら 目に見えない存在の仕方こそ 自由自在・縦横無尽だからだ

 

肉体という固定された苦しい「形」から解放されて

見に見えない状態で存在できるからこそ 

とてつもなく自由なのだ

 

きっと

爽快なのだ

 

 

 

そうやって魂は存在する

 

いつも 僕たちと一緒にいる

 

 

 

これからもずっと

 

永遠に

 

 

 

 

 

 

 

穏やかな秋日和の空気の中に彼を感じる          2018/11/11

 

 

 

 

 

 

今年も、あと数時間になった。

 

清水寺で行われた毎年恒例の言葉書きでは、「災」という字が選ばれた。

今年ほど、「災」が多かった年は記憶にない。

 

西日本の豪雨災害、北海道の地震、台風...etc。自然災害で多くの方々が犠牲になり、今もその傷は癒えていない。原村や富士見町でも台風による倒木や土石流で甚大な被害を受けた。

 

 

しかし、「災害」は自然だけではない。今年は、’’人的災害’’が目立った年でもあった。

 

安倍総理大臣にかけられた「森友・加計学園問題」に関する疑惑と、そこから生じた文部官僚の文書改ざん。政治家や官僚による「災害」は非常に深刻で、未だ真相は闇のままだ。また、自公民の数の力による非民主的な強行採決で、民意を無視した多くの法案が可決された。もう、この国には民主主義は存在しない。

 

スポーツ界でも「災害」が多かった。日大アメフト部の監督・コーチによる試合中の反則強要、相撲業界の暴力事件、女子レスリングでのパワハラ、日本ボクシング協会会長のモラハラ...etc。

 

日産等の日本を代表する企業でも、検査の不正等の「災害」でトップが頭をさげるシーンを、僕たちはニュースで何度も見せられた。

 

 

自然災害だけでも深刻なのに、「人的な災害」が最近増えてきていないか?

こんなことでは、この国はやがて世界から信用されなくなるだろう。

 

 

 

僕個人にとっても、2018年は大切なものを失ったり苦労が多い年だった。異常気象のせいか、ほぼ一年中、体調が万全ではなかったような気がする。

来年は、心機一転、良い年になるようにしたい。

 

 

 

今年も、様々な方々の支えで、クリニックの仕事納めを何とか無事終わらせることができました。

 

支えて頂いた全ての皆さんに感謝申し上げます。

 

ありがとうございました。

 

 

患者様も含め、全ての方々にとって、2019年が素晴らしい年になりますように。

 

 

 

 

今日も富士が綺麗だった                     2018/12/31