遅ればせながら....

 

新年、明けましておめでとうございます。

 

 ブログを更新しようと思っていながら、今年はこんなに遅くになってしまいました。

 その理由は、昨年に大切な存在を無くしたので、「おめでとう」という言葉に若干ためらいがあったこともあります。でも、その悲しみや寂しさは時が経つにつれ徐々に軽くなり、今はわずかに引っかかっているだけになりました。

 

 それよりも、最近明るい話題がない。この国現状があまりにも酷すぎるので、新年早々暗い話題を書きたくないという思いが強かった....

 というのが、新年最初のブログの筆を取れなかった最大の理由です。

 

 

 昨年から度々書いてきましたが、今の日本のモラルはどうなっているんでしょう?新年早々、厚生労働省の労働保険に関する調査がずさんだったことが報じられています。役人は周知していたにもかかわらず、もう十数年前から誰もおかしいと言わず(言えず)に見て見ぬ振りをしてきた。

 

 安倍総理をはじめとする政治家、官僚、企業、スポーツ界....

 今、日本のありとあらゆる分野で不正や暴力的なことが起こっている。これはなぜなのでしょうか?

 

 一時期の日本は、政治家も官僚も企業のトップもそれなりのプライドと誇りを持っており、不正を行うことは恥とされ自分を戒め、国民もそれを糾弾する文化がありました。

 でも、今の日本は変わってしまった。分からなければいいと言った風潮が蔓延し、ありとあらゆるところで不正が行われている。政治家のトップである安倍総理の「モリカケ」問題も、検察は取り調べ開始後早々と操作を終了してしまい、今はマスコミでさえ取り上げようともしない。首相をはじめとする政治家と官僚の文書改ざんといった平成で最大の疑惑事件が、今闇の中に葬られようとしています。

 

 検察は、日産のゴーン元会長を随分長い間拘留していますね。そこまで不正を正す執念があるのなら、なぜ安倍首相をはじめとする政治家たちの不正にはメスを入れないのか?おかしいでしょう?不公平ではないですか?検察まで政治家たちのいいなりになってしまってるのでしょうか?もしそうだとしたらこの国はもうおしまいです。

 

 マスコミも元気がない。そういったおかしなことがたくさん起こってるのに、追求する姿勢が見られない。あたかも政治家たちの監視を恐れるような報道の仕方しかしない。特に、NHKなんか観てるとそんな「恣意的」な印象を覚えます。

 

 

 一方、日本の周囲に目を向けると以前よりかなり複雑な状況になってきています。韓国との慰安婦や徴用工の問題。北朝鮮の核開発問題。中国や韓国との領土問題。ロシアとの北方領土問題。辺野古への基地建設におけるアメリカとの問題。今や大国となりつつある中国とアメリカとの貿易摩擦問題....

 これらは、どれをとっても一筋縄ではいかない問題です。

 

 世界的に観ても「保護主義」が台頭してる。まず自分の国の利益を優先させるという考え方です。アメリカを筆頭に、EUの離脱を決めているイギリスもそうです。ドイツでもそのような考え方の勢力が大きくなってきたため、メルケル首相が退きました。

 

 つまり、今世界中にはびこっている価値観は「自分の国さえ良ければいい」といった極めて利己的な考え方なのです。要は、どの国も「自己中」になってきていて、みんなで助け合いながらなんとかやっていこうという融和感が薄れてきている。特にアメリカがトランプ政権になってからその傾向が顕著になってきたように思います。でも、これはトランプさんがどうこうということでないでしょう。むしろ、世界が行き詰ってきていて、その結果トランプさんのような人でも大統領に「選ばれてしまえる」....世界がそういうとても危ない状況になってきているというように考えた方が自然でしょう。

 これは、本当にヤバい状況ではないでしょうか?

 

 このままいけば、各国の利権争いが増え、まず小さな衝突が起こり、やがては戦争に発展しかねない。第三次世界大戦も絵空事ではないと思います。

 

 

 もう一度日本国内に目を移すと、我が国はすでに高齢化社会の真っ只中。少子化とも合間って、これからは若い人の人口が減り高齢者が増える逆ピラミッド型の人口になっていきます。それは、国民生産性が衰えていくことを意味します。だから、政府は70歳までは働けなんてとんでもないことを言ってる。昨年、「働き方改革法案」が強行採決により成立し4月から施行されることになっていますが、なんか矛盾してると思いませんか?働き盛りの人たちに対しては無理するなと言っておきながら、高齢者に対してはもっと国のために働けと言う。この国は、弱い人たちに対してなんて冷たい国なのでしょう。

 

 今、労働の現場では大変なことが起こっています。リーマン、ショック以降、各企業はベテランである定年まじかの労働者を中心にリストラをし、なんとか生き延びようとした。しかし、そのつけが今、回ってきているのです。ベテランで指導する立場の人たちがいなくなったために、中堅の人たちが自分の仕事と後輩の指導を担わされアップアップになってる。しかも、最初から達成不可能と思われる納期がトップダウンで降りてくる。その結果、会社全体には虚無感や諦めモードが蔓延している。こんな状態ではモチベーションは上がるはずもなく会社の生産性を落としてしまう。結果、納期はもっと厳しさを増し悪循環になっていく...。自殺者数も年間3万人を切ったとはいえ、まだまだ2万人を下回ることはありません。

 

 今の日本の現状を見る限り、明るい未来をイメージすることが難しい。今起こっている問題を国民一人々々が真剣に考え声を挙げていかないと、この国は本当にダメになってしまうと思います。

 

 

 正義、礼儀、矜持、優しさ、思いやり、助け合い...etc   以前の日本人が大切にしてきたプリンシプルがないがしろにされている。このままでは、僕たちは日本人としての誇りを失い、世界の中で孤立していくでしょう。

 

 

 最近、日本人であることが恥ずかしいと思うようなニュースがとても多いので、年初から「何を書いたらいいんだろう?」と戸惑っていました。

 

 

 今年は、このような陰鬱な状況が少しでも改善する年になってほしいと願うばかりです。

 

 

 

 クリニックとしては、今年の4月から10年目に入ります。そういう意味では節目の年です。

 私も含めてスタッフ一同、心新たに患者様のために少しでも良い医療を提供できるようにと考えております。

 

  

 

 

                                 本年もよろしくお願い致します。

 

 

 

 

見渡す限り霜の大地                      2019/1/14

 

 

 

 

 

 

 

 

豊かさということ

 

日本は物質的には豊かになりました。

 

 戦争が終わり、昭和30年〜40年代にかけて「アメリカに追いつけ追い越せ」と頑張った高度経済成長時代。あの頃はまだ日本は貧しかったけれど、国全体に活気があり、お互いが助け合う思いやりの精神がありました。

 当時は、残業という言葉もなかったのではないか?と思います。だって、国民全体が残業していたから。お父さんは夜中過ぎまで働いているのは当たり前だったし、お母さんは「母さんは夜なべして....」なんていう歌があるくらい、日本中のお母さんたちは夜遅くまで家事や育児をするのが当たり前でした。国の施策も「産めや増やせや」だったから4人兄弟5人兄弟なんて当たり前。だから、さぞかしお母さんたちの苦労は大変だったでしょう。今は少子化だから子供の数は1人〜2人くらいの世帯が多い。単純に数字だけで比べてはいけないかもしれないけど、経済面においても、物質面においても、仕事や子育てや家事の面においても....昭和の時代は、今よりもはるかに生きること自体が大変だったように思います。

 

 でも、不思議なのです。

 

 今よりも生活が大変だったはずなのに、あの頃の方が今よりも活気があったし夢があったし、人の温かさや助け合いがあった。

 しかし、平成になってからはどうでしょう?あの頃のような活気や夢やお互いが助け合うといった人と人との繋がりが増しているでしょうか?むしろ、あの頃よりも薄くなっていませんか?

 

 昔は、子供達に’将来何になりたい?’と尋ねると、男の子だったら「パイロット」「宇宙飛行士」「お医者さん」...はたまた、早熟な子は「総理大臣」...etc  女の子だったら「ステュワーデス」「看護師さん」「女優さん」...etc  なんて答えが返ってきたものです。

 でも、今はどうでしょう?

 

 先日、ネットに掲載されていた大学生の職業人気ランキングを見ると、男女共1位は公務員です。もちろん、公務員がいけないわけではありません。とても大事な仕事です。でも、その志望理由には、倒産しないから、給料が安定しているから、定時で帰れるから....etc といった「無難」さを求める心理、リスクを背負いたくない今の若者たちの傾向が見え隠れするようでなりらない。極めて現実的で夢がない。リスクを必要最小限に抑えたいという保守的な思考を感じます。

 

 リスクを背負うということは、言い換えれば自分が傷ついたり苦しんだりすることをあえて受け入れるということです。辛さに立ち向かっていく覚悟を決めるということです。このような強さは、大方は幼少期に身につけていくものでしょう。小さい頃から苦労をして乗り越えた経験値が大人になってからのサバイバル能力を決めるのではないでしょうか?

 

 現代の若者たちのリスクを背負いたくない、無難で平和で生きていきたいという風潮は、幼少期の苦労を乗り越えた経験値が乏しいということを表しているのだと思うのです。

 

 ですから、会社で叱られただけで欠勤する、やめてしまう大人が増えていて各企業の人事がどう対応したら良いかわからなくて困っているという記事が先日新聞に載っていましたし、「とりあえす」「無難がいい」若者たちが、モラルがない自公民であってもそちらに票を入れて勝たせてしまうというような現象が起きている。あの、若者たちが中心になってこの国の行く末のために命を賭した明治維新や、学生たちが中心となってこの国のあり方を変えようとした安保闘争の頃の若者の情熱は何処へやら?というのが今の時代。これからこの国を担っていかなければならない若者たちがこのように平和ボケしていては、日本がより良い状況になっていくわけがありません。。

 

 一方では、少子化ですから、親も一人の子にかける愛情は並大抵のものではありません。できれば、自分が経験したような辛い思いを子供にはさせたくない。だから、子供が怪我をしそうになったら子供が傷つく前に親が先回りして守ってしまう。昔から当たり前のように言われてきた「可愛い子には旅をさせろ」「母親の獅子が子供を崖から突き落とす」なんていうあえてリスクを負わせる教育方針は、下手をすると、現代社会では虐待になってしまう....!?(笑)

 

 このように、親自らが子供が鍛えられる経験値を奪ってしまうなしつけや教育をしているからサバイバル能力が乏しい弱い子が増えてもおかしくはないし、また、そういう子たちが大人になり社会に出て行くと途端に組織の中で適応不全を起こしてしまう。そのような状況がありとあらゆるところで起きている。「ゆとり世代」とか「新型うつ病」、「非定型うつ病」なんていう言葉がありますが、それは、ストレスに対する抵抗力が弱い若者たちの社会への適応障害を表した言葉に過ぎません。

 

 

 ここで「幸せってなんだろう?」「豊かさとは?」と言う疑問が出てきます。

 

 確かに、あの昭和の始めの頃に比べれば日本は豊かになりました。少なくとも物質的には。でも、心は....僕たちの精神は本当に豊かになったのでしょうか?むしろ、後退してはいないか?

 

 

 あと数ヶ月で「平成」が終わろうとしています。平成という時代はどういう時代だったのか?「昭和」と何が違ったのか?僕は、今このことをきちんと考えていかなければならないと感じています。

 

 

 「平成」....それは、物質的な豊かさは獲得したけれども、その一方で精神的な豊かさを失ってしまった時代。僕はそう思います。

 

 昭和と平成の違いを考えると、人間が幸せになるためのヒントがたくさん隠れているように思います。

 人間が幸せと感じるためには、「夢」、「役割」、「思いやり」、「正義」、「礼儀」、「助け合い」そして、少しだけの「不便さ」が必要であるということを教えてくれている。それは全て、物質的なものではなく精神的なものです。つまり、人間は物質的なものだけでは幸せと感じられない。物質的に満たされても精神的に満たされていなければ人は幸せになれない。そういうことではないでしょうか?

 

 昭和の時代は貧しかった。生活をするのも大変だった。だから、隣近所が助け合わないと生きられなかったし、残業して少しでも多くの給料をもらわないと生きていけなかった。でも、「おかずが余ったからどうぞ」とお隣さんに持って行って「ありがとう」なんて言われるとそこに悦びが生まれていたし、また、残業してでも一生懸命働けば給料が上がっていったので生活が豊かになっていった。白黒テレビがカラーテレビになり、手動で脱水していた洗濯機が自動洗濯機になったり...。頑張れば頑張るほど「目に見える(物と言う)形で」がんばることの意義が実感として理解できた。物質的に豊かになり生活が安定することが目標であり幸せであると考えていた。ある意味、昭和という時代は「幸せとは何か?」と言う問いに対する答えがわかりやすい形で存在していたと思うのです。だから、皆には「夢」があったし、それに向かって国民全体が頑張れた。そこから活気が生まれていた。今よりも自殺者数が少なかったのもそういう理由も一理あるのではないか?と思うのです。

 

 では、平成はどういう時代でしょうか?

 物質的に豊かになり、昭和の時代に皆が所有することに憧れた「三種の神器」も誰もが手に入に入れることができるようになった。ある意味、資本主義と経済成長によって国が豊かになり、国民の生活が物質的には安定した時代だと思います。平成に生まれた子たちは、生まれた当初から、大画面のカラーテレビ、全自動洗濯機、電子レンジ、エアコン、電気掃除機、パソコン、スマホ、ゲーム、車などは当たり前のように揃ってる。つまり、生きるために最低限必要なものは揃っていて、なおかつ充分以上の物が溢れている....そんな時代に育ってきています。一時期「一億総中流社会」なんて言葉が流行りましたが、ほとんどの人がなんとか生活していける時代。

 

 ある意味、昭和の時代は今のような物質的に豊かになることを目標にしてきたのではないか?と思うのですが、その願いの結果僕たちはどうなったか?....「平成」という時代は、そういう疑問を投げかけているのではないか?と思うのです。

 

 つまり、「平成」は、人間にとって幸せとは何か?物質的に豊かになることが幸せなのか?いや、物質的に豊かになっても幸せにはならない。本当の幸せとは、精神的な充実なのではないか....?というテーマを提起した時代なのではないか?と思うのです。

 

 

 人は一人では生きてはいけません。お互いが繋がって生きている。それをもう一度大事にすること。お互いが敬いあい、慰め合い、助け合って生きること。自分のためではなく他人の喜びのために行動することによってそこに本当の悦びがあること、そしてそこに自分の居場所が見つかること....そういう事実をもう一度再確認しなければならないと思うのです。

 

 でも、いまの現代社会を見ていると、その逆の方向に進んでいるようにしか見えない。コミュニティでは個人主義が尊ばれお互いが干渉し合わないことが良しとされている、世界的にも保護主義という形で我々個人レベルで起こっていることがワールドレベルでも起こっている。その結果が生み出すものは、傲慢、不信、そして孤独です。

 

 

 

 また、最近はAI(人工頭脳)の技術がどんどん進んで、人間に難しいことはロボットがやるようになってきてる。車の自動運転技術もその一つ。でも、もし人間が全て機械に運転を任せてしまったらどうなるんでしょう?原発の問題などからもわかるように、機械には完璧ということはありません。必ず故障や事故が起こります。自動運転も、もしシステムが故障したらどうなるのでしょう?災害で停電になったらどうなるのでしょう?事故が起こった時の責任の所在はどうなるのでしょう?そして、何よりも、どんどんAIに任せたら、人間の知能や身体能力やサバイバル能力はどんどん退化していくのではないか......?そのような様々な不安がよぎります。

 

 このように考えてくると、人間には、多少の不便さや辛さ、苦しさがむしろ必要なのではないか?物質的に豊かになり便利になりすぎてしまうと、人間は退化してしまうのではないか?

 そして、それ以上にもっと深刻なのは、精神的な豊かさが失われ、人と人との絆が薄れていくのではないか?そんな懸念があります。

 

 

 今、人間はとても難しい状況に置かれていると思います。人類がこれからも生き残っていけるのかどうか?その切羽詰まった状況がすでに顕著になってきている....そう思います。

 

 

 今こそ、人間とはどういう生物か?他の種と共存してこの地球という天体を守っていくにはどうしたら良いのか?というテーマを僕たち一人一人が真剣に考えていかなければならない。それは、そのまま人間にとっての幸せを見出していく営みになるのではないか?と思うのです。

 

 でも、今の日本や世界を見ると、個人レベルでも国レベルでも人間という生物学的な種のレベルでも、とりあえず自分が幸せならいい、自分が生きている間だけは何事もなければいい....といった「事なかれ主義」が蔓延しているように思えてなりません。

  こんな状況を放置していたら、きっと人間は自らの首を絞め自滅していくことになるでしょう。

 

 

 年初からこんな暗い話題を書かなければならないこと自体嫌なのですが、書かないではいられない。今までの人生の中でも、今の時代が最も危機感が強いからです。

 

 

 

 

 

 

今年こそ良い年になりますように              2019/1/14

 

 

 

 

 

日本が日本として

 

日本は、世界で唯一原爆を落とされた国です。

 

 それで多くの方が犠牲になり、半世紀以上経った今でもその後遺症に悩んでおられる方々がいます。

 

 その時、日本人はどう思ったのか?

 

 大本営によって都合の良い情報や嘘の情報を流され、それまで日本がアメリカの連合国に勝ち続けていると騙され続け、結局敗戰した。

 

 そのような愚行によって、国民は、もう戦争は絶対したくない。そのためには武器を持たずに平和を積極的に訴え続けていく役割を担う国になろう!そういった精神が日本国憲法第9条の精神ではないでしょうか?

 

 日本は、これからも戦争を放棄し武器を持たない、たとえ防衛という目的であっても武器を使用しないというあり方を模索していくべきだと個人的には思います。

 

 今、憲法改正の議論が巻き起こっています。安倍さんは改憲して軍事力を増強し軍事的にももっと強い国にしようとしている。彼やその周囲は武器を持つのはあくまでも専守防衛のためだと言っていますが、一旦戦争が始まってしまえば防衛もくそもない。戦争というのはお互いが感情的になって起こすものですから、相手が鉄砲を撃ってきたらこちらからも撃ち返すなんて悠長なことは言っていられないと思います。

 安倍さんが本当に防衛のためだけに軍備を増強するんだと思っているなら考えが甘いし、実はそんなことを思っていなくて先制攻撃も辞さないと考えているなら、今まで国民が大切にしてきた武器を行使しないで平和を守るという日本独自の平和主義が根本から崩れることになります。ぼくは、安倍さんは後者のことを考えているようにしか思えない。

 

 何度も言いますが、日本は世界で唯一原爆を落とされた国。その体験からしかわからない苦しみがあると思います。原爆を落とされていない国にはわからない苦しみ....そこから、どうやったら平和な世界を作ることができるのか....

 それを考え世界平和を実現する方向性を各国に提案していくことは、原子爆弾を落とされた唯一の国である日本の責任ではないでしょうか?平和主義を提案し積極的に遂行することが、日本の大事な役割ではないでしょうか?

 

 でも、今の日本はその逆の方向に向かっているような気がします。安倍さんをはじめ今の政治家たちは、あの戦争の悲惨さ、苦しみを忘れてしまったのでしょうか?

 

 この国は、敗戦からずっとアメリカの庇護のもとに発展してきました。でも、アメリカからすれば、日本は、軍事的にはロシアや中国、北朝鮮といった国が太平洋へ進出しないようにするための監視島くらいにしか見ていないのかもしれません。だから、未だに日本の中にアメリカの基地があるのです。アメリカの基地は日本の領土ではありません。アメリカの領土です。敗戦から随分時間が経ちましたが、本質的には日本はまだアメリカの植民地に近い。

 

 そういう意味では、日本は世界の中ではまだまだ成熟しきっていないプリンシプルが曖昧な未熟な国なのだと思います。

 だからこそ、「日本は武力では解決しない平和主義」を積極的にアピールして、その点で世界をリードする国にならないといけない。僕はそう思います。

 

 対外的には、日本での平和会議の開催、アニメや伝統芸術の発信や交流、スポーツ人口の育成と世界レベルの競技会の開催、人道支援。

 国内では、3・11や自然災害に遭われた方々の救済措置と復興、子供やお年寄りに対する福祉サービスの充実、高度なモノづくりをベースとした「made in Japan」への援助と発展....etc

 

 日本人はせっかく優れた能力を持っているのですから、そういうものを国がもっと大事にして育てていき世界に発信していけるようになればいいなと思います。

 

 

 

 

 

雪が降らなくて嬉しい                       2019/1/16

 

 

 

 

 

 

ムンク展

 

 観てきました。

 

 開催期間最終日の1月20日。最終日なのでとんでもなく混むと予想。19日の土曜日の仕事が終わった夕方に上京して一泊。しっかり睡眠を取り、開館が9時半なので8時前に会場の東京都立美術館の正門へ。そうしたら、もう30人程の人が並んでいました(汗)。

 

 ちょうど、同じ上野公園の敷地にある国立西洋美術館では「ルーベンス展」が開催されていて、それもその日が最終日。時間があればハシゴも...と一瞬思いましたが、ルーベンス展の内容は人物画が主だとの情報。僕は、ルーベンスの「空気感」が好きで、それが如実に感じられる風景画を好むので今回はパス。

 

 話は逸れますが、ムンク展が開催されている東京都立美術館の周囲には、徒歩数分以内に、僕の母校の東京藝術大学をはじめ、国立西洋美術館、上野の森美術館、国立博物館、国立科学博物館、東京文化会館、上野動物園、不忍池....と様々な文化施設等があり、藝大時代は、よく授業を抜け出してはそれらの施設に入り浸っていました。国立西洋美術館には、モネの代表作である「睡蓮」が常設展示されていますが、平日なんか観客がほとんどいないので、作品がある部屋は独り占め状態。その前でボーッと一日中眺めていたこともあります。今から思うと、なんて贅沢な環境にいたんだろうと思います。

 

 

 さて....話を元に戻します。

 信州よりは暖かいとはいえ、東京の朝も寒い。自然に震えてくる心身を温めるために、イヤホンで小野リサさんのボサノバを何度も聴いて待つこと一時間半。関係者の計らいか、15分早い9時15分に開門して入場。チラっと後方を見ると、人の列が大きな美術館を一周取り巻いているようでした。前日から万全の体制で準備して早く行っておいて本当に良かったと思いました。

 

 ほとんどの方のお目当ては、何と言ってもあの「叫び」でしょう。ムンクはこのモチーフを何点か描いていますが、今回は、その中でもテンペラ+油性の作品で本邦初公開です。僕も「叫び」には、ある種の興味は持っていますが、今回の展覧会は、ムンクの若い頃の作品から晩年の作品まで満遍なく揃っていて、ムンクの「心の動き」が系統だって理解できるとても魅力のある展覧会だと感じました。

 

 どの作品も奇をてらったような恣意的な意図は見られず、自分の心の中に浮かんだイメージをそのままキャンバスにぶつけているような印象を受けました。

 深紅を多用するエキセントリックな色彩、モチーフの歪んだ異様な形態、斬新な構図...etc         どれをとっても、ムンクしか表現できない心の世界。

 

 そして、彼が絵画を通して伝えてくる「心の世界」は、不安、恐怖、孤独、絶望、嫉妬、愛、死への恐怖といった、人間の感情を構成する本質的な要素ばかりです。

 あの「叫び」の作品の前にはとりわけ多くの人垣ができていましたが、それは、この作品が、僕たち誰もが持っている不安や恐怖といったものを、極めてシンプルかつ強烈に提起してくるからこそでしょう。

 

 特に、一番最後の作品「自画像 時計とベッドの間」は、幽霊のようにボーッと立っているムンクの向かって右側にはベッドと裸体の女性が、左側には大時計が描かれ、彼の生への未練、固執と目前まで迫っている死への恐怖と覚悟が感じられ心を打たれました。

 

 

 

 

 少し時間があったので、そこから歩いて数分の母校(東京藝大)にも足を延ばしました。東京藝大は、谷中に延びる道を挟んで、美術学部(美校)と音楽学部(音校)で構成されています。

 美校の赤レンガの正門は、藝大美術館建設のため、本来在った位置とは別の場所に移動して残念でしたが、道を挟んで反対の音校の正門は当時のまま。一歩構内に足を踏み入れると、合格発表で飛び上がって喜んだ時、一日中パーカッションを叩いていた時、サンバで練り歩いた時、クラスメイトと夜遅くまで『美とは何か?』と議論しあった時、藝祭でのライブで思いっきりサンバした時...etc  その様々な場面が走馬灯のように頭の中を駆け巡りました。やっぱり藝大時代は楽しかったなあ....。本当に、心から青春を謳歌した4年間でした。今、タイムマシンがあったら、もう一度藝大時代にスリップしたい!....そう思います。

 そのように久しぶりの母校を散策していると、旗を持った案内人に先導された中国のツアー客の一団と遭遇しました。藝大にもツアーで来るのか!?と少々違和感を覚えました。

 

 もう少し青春の思い出に浸っていたいという思いに後ろ髪を引かれながら、帰りのあずさの時間を気にしつつ、藝大を後にしたのでした。

 

 

 

 

 

やっぱり、絵っていい!                      2019/1/20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いま つらく くるしい ひとへ

 

 

 

つらいですね

 

ほんとうに つらい

 

 

でもね

 

いまの あなたの こどくで つらいきもち ふあん くるしみ は

 

あなたが いま このしゅんかんを いっしょうけんめい いきているから

 

それは いきることへの あなたの せいじつさの あらわれ

 

あなたが とても にんげんらしい そしつを もっている しょうこ

 

 

だから そんな あなたは とても すてきです

 

だから じぶんを せめないで

 

じぶん ひとりで がんばろうと おもわないで

 

 

ぼくも いまの あなたのように いきるのは たいへんだけど

 

あなたのために いのります

 

 

これからも ずっと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(PS)「あなた」とは、特定の人を意味していません。

 

 

 

 

 

 

凍てつく空気にほのかな春の日差し               2019/1/28

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

危機感

 

今、この世界に、いや、人類に危機感を感じています。

そして、この思いは決して大げさではないと思います。

 

 

 大国アメリカが、トランプ政権になってから自国第一主義を表明しそれを推し進めています。他国もそれに追随し、今、世界各国の絆がほころび始めているように思います。

 アメリカのような強力なパワーを持った「親分」が自分だけを大事にする!とやり始めたから、子分である他国も「それなら俺も....」となってしまっている感じでしょう。

 オバマ大統領までのアメリカは「世界の警察」と自称してきたように、世界中に強力なリーダーシップを発揮してきました。それはそれで、イラク戦争から湾岸戦争に発展したような弊害ももたらしたことは否めませんが、プラス面から見れば、世界のまとめ役を担ってきたとも言えると思います。

 

 でも、トランプ大統領は、元はと言えば不動産で財を成した大金持ちです。その彼は、大統領になると「市場の経済論理」を国政に取り入れてしまった。経営者の論理で政治を始めてしまった。市場の経営者は、自分の会社がどうすれば成功するかをまず考えます。そこには、自社以外のことは二の次で、場合によっては自社が成功するなら他社を蹴落としてでも利益を追求するでしょう。

 彼がやっている政治は極端な現実主義で、自分さえが良ければ他人はどうでも良いという個人第一主義です。そんな思考に、弱い国を思いやり不幸な人々を憐れむような精神が生まれてくるでしょうか?世界平和を希求するようなグローバルな視点が出てくるでしょうか?

 人類の「親分」が自己中で他国のことを顧みないことになってしまっては、「子分」も自己中になり、やがてはお互いの利益を希求するあまり戦争が始まる....僕はそんな危機感を持っているのです。

 

 

 

 そして、このような個人主義、利己主義的な考え方は、日本人の中にも蔓延しているように思います。クレーマーの増加は、僕たち一般市民のレベルで自分の権利や自由をまず第一に考える個人主義の表れでしょう。個人個人が自分のこと利益や権益だけに重きを置き、他人への思いやりや優しさが欠けてきているのではないか?そんな感じがします。

 

 そもそも、自分ひとりの力なんてたかが知れています。今僕たち一人ひとりがこうやって生きていられるのも、周りのたくさんの人たちの協力や支えや思いやりがあってこそです。だから、自分の周りの人達にもっと感謝しなければならない。敬いの気持ちがを持たなければならないのではないでしょうか?でも、今の社会は他罰的で、そういう気持ちが薄れてしまっているように思います。

 

 国通しでも同じことが言えます。日本は、日本一国の力で存在できているわけではない。他国の様々な力に支えられて日本国という形を呈しているのです。

 歴史的に見ても、日本は大陸の文化を吸収し、自国で昇華させてきました。漢字、仏教を始め古代に吸収した様々な技術や文化は中国や朝鮮半島から学んだものがほとんどです。ですから、中国や韓国、北朝鮮などの国々にはもっと敬意を払わなければならない。いがみ合っていてはいけないと思うのです。それぞれが、お互いを敬い思いやる姿勢がとても大切だと思うのです。そして、その姿勢は他の世界中の国々に対しても同様です。

 

 自分ののことだけを考えるのではなく、他人のことにも思いを馳せ、敬意を払い、人のためになるように生きること。それは、自分が孤立せず自分の居場所を見いだすことの大切なポイント。

 それはそのまま、一国にも当てはまります。日本が日本として孤立せず生き残っていくためには、他国に敬意を払い、自国だけではなく他国のために様々な働きかけをすること。それが大切だと思うのです。

 

 

 

 個人主義、自国第一主義に未来はありません。その先には、個人の破滅、人類滅亡しかないと思います。

 

 

 

 

 

 

今日の空のように世界はどんよりしている                     2019/2/3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうして....

 

この社会が、自分の権利を重んじて他人への配慮をしなくなってしまったのか?

 

 現代社会は、自分の利益や権利を大事にして、他人を敬う姿勢や思いやる気持ちが薄れてしまっているように感じます。

 

 例えば、教師が生徒を叱っただけで「なんでうちの子だけを叱るのか?」「パワハラだ」と父兄が訴えてくる。だから、今や、教育の現場では教師は生徒が悪いことをやっていても自由に叱れないそうです。これでは学級運営はできません。必然的に「学級崩壊」が起こります。

 大抵、叱っただけでクレームをつけてくる親は、家庭で叱ることができない親です。子供が傷つくのではないか?ひどく叱るとトラウマになるのでは....?などと考えて叱らない(叱れない)。

 だから、子供も家庭ではやりたい放題。やがて、そうやって基本的なしつけがされていない子供が大人になると、叱られた経験に乏しいので、組織に入って叱られただけで会社を休んだり辞めちゃったりする。そして、そういう時の理由は大抵「お前が叱ったから」「それで傷ついたから」といった他罰的(相手のせいにする)なものです。本当は自分に問題や責任があるのに、それには考えが及ばない。そこには「他人のせいで自分がこうなった」といった、極めて自己中心的な思考と逆説的なコンプレックス、変なプライド意識が根底にあります。

 

 今の若い世代が「ゆとり世代」と言われ、様々な言われ方をしています。僕は、その世代のすべての人が問題だとは思いません。

 しかし、ストレスに対して弱く、他人のせいにし易く、プライド意識が強いという印象は残念ながら否めません。それは、幼少期から、叱られた経験が少なく、また、親子関係上、家族以外の人間関係上で揉まれた経験が少ないことが大きいのではないか?と考えています。

 また、パソコンや、スマホ、ゲームといった電子機器は、人間の生活を格段に向上させましたが、同時に、人間にとってとても大切な、コミュニケーション能力や創造力といった能力を奪ってしまったのではないか?とも思います。

 

 人間は知能によって文明を起こし発展させ、その結果、生活を便利にし、他の生物を支配するまでの地位を築きました。でも、それは人間にとって本当に幸せなことなのでしょうか?その結果、自然破壊が起こり、地球温暖化を生み出し、異常気象や自然災害といった形で人間自体にしっぺ返しがきているではありませんか?

 

 便利になればなるほど、人間は自分の能力を使わなくなります。スマホは言葉の最初の文字を打てば様々なパターンで漢字が出て来る。パソコンがあれば表計算なんかは瞬時に機械がやってくれるから自分で計算することがダサくなる。車があるから近くのコンビニに行くのも歩いて行かない。めんどなことや厄介な処理はAI(人工知能)がやってくれる....

 

 こんなことでは、やがて人間は退化していくでしょう。

 

 

 人間は、豊かになってはいけない、便利になってはいけないのではないか?

 

 昔は、貧しかったり生活が不便だったからこそ、お互いが助け合い、また、自分の頭や身体を使ってなんとか乗り越えていった。そして、そこでコミュニケーション能力や体力や創造力が培われていったのではないか....ストレスに対する強い抵抗力を身につけられたのではないか....?

そう思うのです。

 

 

 ですから、幼少期のしつけや教育はとても重要です。

 そして、それはまず「親」がしっかりとやらなければいけません。なぜなら、人にとって人生の最初に関係を持つのが親だからです。

 

 いくら忙しくても時間がなくても、親がしっかりとしつけ愛着を持って子供に接すること。それが、「人」を形成していく一番の基本です。

 

 そこのところがうまく行かないと、子供は健康的な大人に育っていくことが出来ません。こういう基本的で重要なことは、親がやるべきことであって学校に任せることではないのです。

 

 そのためには、親もしっかりしなければなりません。子供は親をよく見ています。親をまねて子供は成長していきます。ですから、親は子供の模範です。ひとつの指針を提供する存在です。ですから、僕たち大人は、もっと子供たちの模範となるべく日々反省し精進するような謙虚さがなければならないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

人間って本当に賢いの?                      2019/2/3

 

 

 

 

 

 

 

 

今の政治かも官僚も....

 

めっちゃくちゃだね!

 

 今回の厚生労働省の労働保険に関する実態調査もそう。もう、これでいくつの省庁の不正が出てきたことか?防衛省、文部科科学省、総務省、厚生労働省....

 官僚の不正は日本の政治の腐敗の表れ。自公民による独裁政権の膿が出てきてしまっているように思えます。

 

 そのほかにも、企業の不正も相次いで起こっていて、今の日本は「不正大国」の様を呈しています。日本は、いつからこんな信用できない国になってしまったのでしょう?他の国に対しても恥ずかしいではありませんか?

 

 政治家は、もっと国民の模範となるような姿勢を持たなければならないし、官僚は国民に資する仕事をしなければならないのに、両者とも奢りと怠慢にどっぷり浸かってしまっています。

 

 こんな国に未来はありません。

 今のような状況が続けば、日本は滅びてしまうと思います。

 

 

 人間は、長い間権力を持ち続けるとダメになってしまいます。それは、歴史が教えてくれています。あの平家も、武士であることを忘れて奢り高ぶって貴族のような生活を始めてしまったが故に、「奢れるものはひさしからず」と滅亡しました。自分の本分を果たさないで奢ってしまう人間の末路です。

 

 

 この日本を衰退させないためには、僕たち国民がもっとしっかりしなければなりません。ダメなことをやっていたら、きちんと「NO!」と言わなければいけません。

  もう、政治家や官僚は信用できません。彼らに政治や国の政(まつりごと)を任せていてはこの国はダメになります。この現状は国民一人一人の力で変えなければなりません。そのためには、今年行われる選挙が大事になります。

 

 そろそろ、国民が怒りの声を挙げないといけません。

 僕たちの明るい未来は、僕たちの力で勝ち獲るしかないのです。

 

 

 

 

 

 

安倍さん、あんたは首相の器ではない              2019/2/3

 

 

 

 

 

   

 

 

 

僕にとっての

 

 この世に生まれた使命は、精神科医として、少しでも患者さんの役に立つことだ。患者さんの心を少しでも楽にして差し上げることだ。

 

 そのためには、小手先の技術では通用しない。きっと良くしてみせるという気合と情熱が大切だと思い、毎日診療に取り組んでいる。

 

 もちろん、医師としての知識や技術は人並みに身につけてきたつもりだ。しかし、いざ臨床の現場に立ち会ってみると、身につけた知識や技術だけではどうにもならない場合も多い。そういう場合は、最後は自分自身の人格や人柄で勝負するしかない。

 

 

 そもそも、医療とは人と人の関わりである。そこには、感情と感情の交流やせめぎ合いやぶつかり合いがある。そういったレベルでは、教科書的なマニュアルは通用しないのだ。

 

 患者さんを少しでも癒しや良くするということ....

 そこには、患者さんに情熱と責任を斗する覚悟と気合がなければならないと思う。臨床は真剣勝負だからだ。

 

 

 

 「一期一会」

 

 僕は、毎日、一人ひとりの患者さんに対して、このような気持ちでに臨んでいる。

 「自分の一生はいつ終わりが来るかわからない。もしかしたら、この患者さんとも今日が最後の診察になるかもしれない。だから、この患者さんとの時間を大切にし、精一杯自分の持てる情熱と力を患者さんにささげよう」

 

 そこには、自分の命がいつか尽きるという「死」への覚悟がある。

 いつ死ぬかわからないから、今この瞬間を大事にする。

 「今」に感謝し、目の前のことに集中し、一生懸命、一心不乱に生きる。

 

 その基本的な考え方が、僕の臨床の根幹であり全て。

 

 患者さんとの時間は、僕の人生そのものであり、患者さんにとっても人生の中で大切な時間のはずだ。

 ならば、その事実に敬意を評し、真剣に必死に生きる。

 

 それが、僕の精神科医としての、そして、医師としての生き方だ。

 

 

 

 

 

 

患者さんのために今日も祈る                      2019/2/3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうなってるんだ????

 

いったいこの国は!!

 

 厚生労働省のずさんな調査や、そのいい加減さを隠そうとする政府や官僚。それは、国の信用を根本的に失うことなのに、今の政府は原因を解明しようとしない。第三者委員会を設置したが、その委員会自体がいい加減な調査をする始末。だいたい、政府与党が任命した委員だから、政府の都合の良いように「調査しました」ということになるんだろうなとは思っていたけど案の定、形だけ。要は、「きちんと調査をしましたよ。でも、特に問題はありませんでした」と国民に伝えるためのパフォーマンス。ホントに茶番劇。 

 安倍さんはいつまで国民に嘘をつき続けるのか?だいたい、国会であらかじめ作った文章を棒読みして回答するのもやめてほしい。そんな姿勢では気持ちが伝わってこない。

 

 そもそも、今の国会自体が形骸化している。あれは議論の場ではない。あらかじめ予定された質問が渡されていて、それに対して官僚などが用意した文章を国会議員がただ読んでいるだけ。棒読み大会だ。時々、漢字を読み間違えて失笑を買う大臣もいるくらい(笑)。

 

 あんなの、僕に言わせれば議論ではない。議論とは、カンニングペーパーを読むのではなく、質問されたことに対してその場で自分の頭で考えて自分の言葉で主張することだ。そんな当たり前のことが、国会という最高議決機関でできていない。小学生の頃学級会の方がよっぽど民主的な話し合いをやってる。発言する議員はカンニングペーパーをただ読むだけ、それを聞いている議員はヤジを浴びせるか寝ているだけ....こういう非常に低レベルで下品な空間...それがこの国の国会だ。あんな場面を子供達が見たらどう思うのだろう?幻滅して将来への希望は持てないのではないだろうか?しかも、こんな下品で無能な国会議員の給料は、全て僕達の税金で賄われているのだ。腹が立たないか?

 

 

....話が逸れてしまった

 

 

 そういう嘘をつき通していい加減な政治をやり続けて国民を欺くことをやっていても、安倍さんや根本厚生大臣は責任をとって辞めようとしない。どれだけ面の皮が厚いのか?

 

 あの、「森友・加計学園問題」の時と同じ。それ以後も、各省庁の改ざんやすさんな仕事ぶりが続いたことは周知の事実。

 

 今の政治家や官僚は本当に国民を馬鹿にしている。自公民が過半数を占めているから、何をやってもいいという奢りがありあり。安倍さんがよく「国民のために....」なんて口にするけど、安倍さん、あなたに「国民のため」なんて言ってほしくない。国民を騙してるあなたにそんな言葉は使って欲しくない。

 

 僕たち国民は馬鹿じゃないよ。ちゃんと、あなた方がやってるおかしなことは見抜いてるよ。

 今にきっと相当なしっぺ返しがくるよ....安倍さんをはじめ政治家や官僚には。

 

 

...........

 

 

 そうかと思うと、千葉県野田市で起きた虐待事件。父親の暴力で10歳の尊い命が失われた。

 もちろん、女の子の父親はどうしようも無いクソ野郎(頭にきてるので、あえて汚い言葉を使わせて頂きます)だが、もっとショックだったのは、女の子が何度もSOSを出していたにも関わらず、学校も、教育委員会も、児童相談所も彼女を救わなかったこと。皆んな危機感は持っていたのに、一度は児童相談所も保護はしたのに、最後は犯人である父親の圧力に負け安易な楽観論も加わって、誰も彼女を守ろうとはしなかった。

 

 「絶対秘密は守るから正直に書いてね」と女の子に家庭の状況を書かせた教育委員会が、その調査用紙のコピーを父親に渡してしまった!??。信じられない。こんなことってあり得るんでしょうか?絶対あってはならない事じゃないですか!教育委員会自体が女の子との約束を破り欺いてるじゃないですか!いったい、何のための「教育委員会」なんでしょうか!結果的には、教育委員会は女の子を騙した形になってしまった。

 

 児童相談所も酷すぎる。一回は保護しておきながら、父親が持参した「女の子が書いた」と(父親が説明する)手紙を見て、その内容から保護しなくても安全だと判断し保護しなかった。誰もが危ない状況だとわかっていたはず。父親が持参した手紙は、父親が無理やり女の子に書かせたと容易に想像できるはず。だって、何度も虐待をしていて強硬な姿勢をとる父親なんだから。この児童相談所は本気でこの子を守ろうと思っていたのか?百歩譲っても、児童相談所の職員が危機感を持って仕事をしていたとは思えない。

 

 学校も学校だ。父親の虐待を知りながら、結果的には何もしなかった。

 皆、それぞれが専門家なんだよ。それでお給料をもらってるんだよ。それなのに、それぞれがその責務を果たさなければ何のために働いてるの?職務をきちんと全うしないのであれば、その組織は無いに等しい。

 

 逮捕された母親もそう。女の子が殺される日もその場に一緒にいて娘を守らなかった。確かに、母親は夫(犯人)からDVを受けていた可能性があり、言うことを聞かなければ自分が暴力を振るわれるから怖くて女の子を守れなかった...そう言う状況は理解できる。

 しかし...だ。

 親なんだから身を呈して守るのが基本だと思うし、それが怖くて出来ないのなら、せめて、父親が娘を虐待してる時にわからないように警察に通報するとか、父親が仕事に行ってる間に娘と逃げて児童相談所や警察に保護を求めるとか、いくらでも様々な方策をとることができたはず。だから、自分もDVを受けていたから娘を守れませんでした...と言うのは理由にはならない。

 

 一番信頼し甘えられる母親が自分を守ってくれない....

 虐待をただじっと見ているだけの母親を視界の片隅に感じながら苦しんで死んでいった女の子のことを思うと、どうしようもなくやり切れない気持ちに襲われる。女の子の心は、「なぜ助けてくれないの?」という思いや、虚しさ、絶望でいっぱいだっただろう。

 

 

 

 この事件で問題なのは、母親、学校、教育委員会は、児童相談所といった「それぞれのプロ」が(結果的には)何もしなかったこと。連携プレイが必要なのに、それぞれが連携せずお互いが責任転嫁し合ってること。

 

 

 いったい何やってんの!!

 いつからこんな社会になってしまったの?

 

 

 この事件の背景には、いまの日本社会が抱えている様々な問題が凝縮されているように思う。

 

 ストレスが溜まりゆとりがない親。いつも欲求不満がたまっていてどこにはけ口を求めたらいいかわからない。それが、妻や子供に向かう。それが虐待。本当は、虐待をする親(大人)自身に解消できないフラストレーションやコンプレックスの問題がある。

 

 また、今の親たちは、少子化・核家族化によって、子供への愛情(偏愛)や期待が過剰すぎる。その結果、子供が自分の思い通りにならないと虐待する。「しつけ」と称して。

 「お受験」もその延長線上にある。あれは子供のためを思ってが半分。親自身の見栄が半分。本当に心の底から子供のためだと思って良い学校に入れようと思っているのだろうか?世間体を機にする親自身のためではないのか?

 

 でも、昔の大所帯で生活していた時代は、たとえ両親の過剰な愛情が子供に注がれていても、おじいちゃんやおばあちゃんが諌めたり子供を慰めて守ったりしていた。僕自身も、母親は厳しかったので、よくおばあちゃんに甘えて癒されたものだ。

 

 でも、それは自分を守ってくれる存在が身近にいたからできること。今の時代のように、みんなバラバラで暮らしていると家庭がclosedでブラックボックス的な空間になり、外からは何をされているかわからない環境になる。だから誰も守れない。

 

 また、親がストレスに対して弱く、フラストレーションが溜まっていて強迫的でプライド意識が高いから、ちょとしたことでもクレームをつける。クレーマーやモンスターペアレンツと言われる人たちがその典型だ。ちょっとしたことでも、すぐにクレームをつけ権利を主張する。学校に対しても。

 

 生徒が悪いことをやってて教師が叱ると親から「なんでうちの子ばかり注意するんですか!」というクレームの電話がしょっちゅうかかってくるそうだ。ある小学校では、授業が終わるや否や、職員室の電話が一斉に鳴るそうだ。そのほとんどの内容がクレーム。教師は、授業が終わるとまずその対応に追われ、その後、疲れ果てた状態で残った仕事をやらなければならないから自然に毎日残業になる。少しでも自分の正統性を主張すれば、親は教育委員会に訴えるなどと脅すから校長や教師は言いなりになる。今、鬱になりやすい職業別ランキングではトップが教員だ。さもありなんと思う。

 

 先述したように、親にフラストレーションが溜まってるから虐待という形でそのゆがんだエネルギーが子供に向かうわけだが、一方では子供への過剰な愛情(偏愛)や期待が子供を叱らない、しつけないとう状況を生み、その結果、一方では学校へのクレーム(モンスターペアレンツ)となり他方では学校にしつけを要望する親が増える。とても両極端な親の在り方が見え隠れする。何れにしても、その結果、教師が疲れ果てる。

 

 これは、親(=大人)の人間性が、ストレス耐性に脆弱、自分も叱られた経験に乏しい、人間関係の構築が苦手、権利意識が強い、プライドが高い、他人よりまず自分が大事(自己中心的)になってしまっていることも多分に関係しているように思う。

 

 

 さらに、行政も問題。お役所仕事といったら役場で一生懸命働いておられる方には失礼だが、どこか、仕事に対するプライド意識や責任感が乏しい。学校も教育委員会も児童相談所も、子供の人権を守ることが最も大切な職務(義務)なのにそれを果たそうとしない。「すみませんでした。今回の件を厳粛に受け止めて再発防止に努めます」と御決まりの文句を言って頭を下げるだけ。

 今回の事例だけではなく今までも行政の怠慢や躊躇で多くの尊い命が失われていることを考えれば、この現状は早急に対策を立てないとまた犠牲者が出るだろう。

 

 

 また、地域の問題もある。野田市の虐待事件では、周囲の住民が何度も女の子の鳴く声や叫び声を聞いていたという。ならば、なぜ警察等に相談しなかったのか?今の社会は変な個人主義がはびこっていて、他人のことは他人と考えて見て見ぬ振りをすることが多い。自分が関わって面倒なことになりたくないからだ。ならば、せめて組や区のレベルで女の子を救う相談ができなかったのか?

 今回の事例だけではなく、今までも行政の怠慢や地域の躊躇で何人もの尊い命が失われているのだから、何としてでもこの現状は変えていかなければならないだろう。

 

 

 

 

 最近の世相を見ていると、日本はずいぶんヤバイ国になってしまったんだなと感じる。

 

 おごりと傲慢に任せて好き放題やる与党の政治家たち、それを阻止できない弱小な野党、政治家の言いなりになる官僚(政治家の顔色を伺ってモラルさえも無くなってる)、欲求不満とコンプレックスが強いからちょっとしたことでピリピリしてしまう大人、でも、一方では権利とプライド意識が高い自己中な大人(こういう人たちは、たいてい他人のせいにする[他罰的])、そういう大人が構成する社会だから、ピリピリとしていて、車のハンドルのような良い意味でのあそび(ゆとり)がなく、譲り合い、助け合い、思いやりの雰囲気に乏しい。だから、皆が孤独や不安を抱えている。

 

 叱らない、しつけられない大人に育てられた子供は抵抗力がないから、やがて大人になり社会に出て組織に入って破綻するケースが激増している。

 目上を敬わない、礼儀を知らない、マナーがわからない、空気が読めない、相手の立場に立って物事を考えられない、ストレスに弱い、権利意識やプライドは人一倍高い(これは、すべて親から学んだ負の部分)。だから、上司にし叱られたり仕事が自分の思うようにいかなかったりすると、すぐに休んだり辞めてしまったりする。そんな時、彼らは口を揃えてこう言う。「上司が叱ったから」「周囲が助けてくれないから」「会社がきちんと対応してくれないから」「社会が悪いから自分はこうなった」...etcと。

 自分がうまくいかないことを他者や社会のせいにする。本当は、そういう考え方しかできない自分自身に問題があるのに。

 

 精神的に大人になってる人は、何か問題が起こっても自分に責任や問題があるのではないか?とまず考える。でも、自分は悪くない、悪いのは相手だと他人や社会のせいにするのは精神的に未熟な証拠。まだ大人になりきっていない。

 

 でも、そんな「にわか大人」が今増えている。見かけは大人だが中身が子供な人たちが。

 そういう人たちは精神的に未熟なために依存的だ。相手や周囲や社会に依存しているため、それらが変われば〜自分の思い通りになれば〜自分は幸せになれると思ってる。でも、それは幻想に過ぎない。なぜなら、他人ほど自分の思い通りにならない存在はないからだ。

 

 幸せは他人が与えてくれるものではない。自分で獲得するものだ。自分で創り出すものだ。

 誰も助けてはくれない。どんなに辛くても苦しくても、最後は自分で自分を救うしかないのだ。それしか方法はない。

 

 だから....

 

 他人のせいにしていたら永遠に幸せにはなれない。

 

 

 

 

 

 この国は、政治も官僚も司法も経済も社会も....貧弱で貧しい。

 

 物質的には豊かになったの....に心が貧しい。

 

 日本は、心の後進国だ。

 

 

 

 いつからこうなってしまったの?

 

 

 少なくとも、僕が子供のころ....昭和30年代〜40年代はこんな国じゃなかった。

 もう少し、政治家も官僚も大人もそれぞれの本文をわきまえてその責任を全うしようとしていたし、社会全体に、助け合ったり労わりあったり、礼儀やマナーを守る精神がしっかりとあった。だから、どこか安心感があったし夢があった。「三丁目の夕日」という映画にはその良き時代の雰囲気がよく出ている。

 

 

 

 これから、日本はどうなっていくんだろう?

 

 少なくとも、今のような社会ではこの国の将来は暗い。どんどん衰退していくだろう。

 

 今一度、一人々々が自分を見つめ直して、もう少し他者にも目を向け、昔から日本民族が大切にしてきた、礼儀、正義、優しさ、思いやり、おもてなし、平和主義...といった世界に誇れる民族性を復活させなければならないのではないだろうか?

 

 でも、その実現を今の国に求めても、不信感しか抱けない政治家や官僚には無理だろう。

 

 僕たち国民一人々々が自覚を持って、少しずつでいいから変えていくしかない。

 

 

 

 

 

 

 

亡くなられた女の子のために祈る                  2019/2/10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マイナス思考

 

人は、よく悪い方に考える。

 

マイナス思考、プラス思考と言うが、多数決をとったら、おそらくマイナス思考の人の方が多いのではないか?

 

では、なぜ人間の脳は’マイナス思考寄り’なのだろう?

 

 

 人は弱い動物だ。あらゆる生物の種の中で、人間ほど弱い種があるだろうか?と思う。

「どうして人間が最も弱い種か?」って?

 だって、人間は自殺するじゃないですか?人間以外の生物で自ら命を絶つ種はありますか?

  だから、人間はもともと弱いのです。外から見たら強そうに見えても、中身は皆同じ。弱いんです。寂しくて孤独なんです。

 むしろ、いじめ、噂好き、意地悪、パワハラ、暴言や暴力....そういった「くだらない武器」で武装して人にプレッシャーをかける態度を示す人ほど、内面は人一倍弱いといっても良いでしょう。そういう人は決して強い人ではありません。ものすごく弱い人です。その内面の弱さだけでは生きて行けないので、外面を強く見せて心のバランスを取っているのです。

 

 だから、もし自分の周りにそういう態度をとる人がいたら、心の中でこう思ってみればいい。「あ〜あ、弱くて自分がどうしようもないからああいう態度をとるんだな。」「本当は、コンプレックスが強くて、寂しくてしようもないんだな」と。

 

 

少し話が逸れてしまいました。

 

 どうして人間は基本的にマイナス思考なのか?という命題で話をしていたんですよね。

 

 思考や感情は脳で生まれるのですが、悪いことを考えるというのはある種の防衛反応や生存本能から来るものなのではないか?と思うのです。

 

 例えば、今車を運転しているとします。50m先に三叉路があります。自分は直進していて優先道路を走っています。やがて三叉路に近づいてきた時、左から車が近づいてきました。相手は一旦停止の表示があります。こちらとしては注意しながら直進するわけですが、その時、「あの車が停まらなかったらどうしよう?」と一瞬マイナス思考が頭をよぎります。こういう場合、絶対停まってくれると確信する人は少ないのではないでしょうか?だから、こちらも速度を落として、最悪の状況を未然に防ごうとします。つまり、停まってくれるだろうというプラス思考で運転するよりも停まってくれないんじゃないか?とマイナス思考で考えた方が事故を防ぐことができるのです。

 

 このように、人間は生命力が弱い種だから、事前に悪い状況を予測して(マイナス思考になって)危険な状況を回避しようとするのではないか...?

 人間は、マイナスな悪い状況をあらかじめ予測し知恵を使ってリスク回避をしてきた。それが生物学的には脆弱な人間を守ってきたのではないか?そう思うのです。「失敗は成功のもと」ということわざも、そのような意味を込めているのでしょう。その時に出てくる不安が「予期不安」です。

 

 このように、人間は嫌な体験をするとそこから予期不安やマイナス思考が生まれますが、このマイナス思考や予期不安があまりにも強すぎたり長く続くと、大きなストレッサーとなって僕たちの心を蝕み始めます。他の生物よりも大脳皮質が発達しすぎているがゆえに、いったん浮かんだマイナス思考や予期不安をさらっと流すことができないのです。そこに人間の生きる苦悩が生まれます。

 

 ですから、できるだけマイナス思考の時間は短い方が良いし、できればプラス思考を強化するようなトレーニングができると良いと思います。

 

 もともとプラス思考の人なんていません。もし生まれつきプラス思考の人がいたとしたら、お母さんが少しくらいおっぱいをくれなくても、不安にならずに泣かないで待てるでしょう。プラス思考は、生まれてから身につけていく後天的なものだと思います。プラス思考を強化するのにまず大事なのが両親の接し方です。親ができるだけ子供の良い面を見て褒めて伸ばしていこうとする姿勢を持っている子供は、自然とプラス思考になっていきます。それと同時に「今の自分で良いんだ」という自己肯定感も育っていきます。

 

 例えば、テストで30点取ってきた子供に対して「30点もよく頑張ったね!」と、まだ足りない70点の方を取り上げるのではなく、頑張った30点の方を評価する親に育てられた子供はきっとプラス思考になるでしょう。このように、プラス思考は、もともとマイナス思考にできている人間の脳の思考パターンを変換するトレーニングから生まれるものなのだと思います。

 

 もし、不幸にしてマイナス思考の親の元に生まれてそのようなプラス思考になれなかったとしても、大人になってからでもトレーニングはできます。

 

 あの、作家の五木寛之さんは、40代でうつ病になった時、「よかったノート」をつけて病を克服したそうです。毎日一つだけ良かったことを書いていく。この方法には二つの良い点があります。まず一つは、良かったことに目を向けようとするプラス思考を養えるということ。もう一つは、「書く」ということが記述療法的な効果があり、後から読み返すこともできること。

この方法は有効だと思います。ただ、この時、たくさんのことを書かないこと。1日に一個、良かったことを箇条書きにするのが良いと思います。

 僕はよく、クリニックで診察しているときに、患者さんに「今朝起きてからここへいらっしゃる間に良かったことを一つ挙げてみてください」と質問します。そうすると、大抵の患者さんは首を傾げて「う〜ん、良いことですか...。何もありません...」とおっしゃいます。

 でも、それは、良いことというと何か特別なことを考えようとしてしまうから出てこないのではないでしょうか?

 僕たちの日常生活、人生において、そんなに特別に良いことなんて滅多に起こりません。自動販売機で缶コーヒーを買ったらもう一本当たった!ことが年に一回あるか無いか。そんなくらいじゃないでしょうか?

 

 でも、僕たちは、日頃当たり前だと思っていることの中に良いことはたくさんあるのです。今、全国のどこかで毎日交通事故は起こっています。でも、今あなたは、今日交通事故に遭遇しましたか?季節の変わり目で風邪を引いている人は多いですが、今あなたは引いていますか?そうやって考えてみると、いいことは毎日たくさんあるのです。無いと思っているのは、いいことを当然のように思っていてそこに価値を見出していないからです。交通事故にあっていない幸せ、風邪を引いていないありがたさ...そういうことは、実際それを経験して初めて分かる。

 そういう、普段は当たり前と思ってる良いことや幸せをきちんと評価してあげる姿勢......それがプラス思考です。

 

 僕たちの日常には、良いことや幸せはたくさん転がっている。でも、それを見つけるためには「意識」が大切です。良い面を見よう、良いところを見つけようという「意識」が。

 ちょうど、たくさんのクローバーの中から四葉のクローバーを見つけ出す時のような....そんな「意識」が大切なのです。

 

 

 

 

 

木々の蕾が大きくなってきました                 2019/3/31

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸絵画ミラクルワールド『奇想の系譜展』

 

 東京都立美術館で開催されている「江戸絵画ミラクルワールド『奇想の系譜展』」に行ってきました。

 

 前期と後期の二回。僕が藝大の卒業論文で扱った曾我蕭白を始め、伊藤若冲、長沢芦雪、岩佐又兵衛、狩野山雪、鈴木其一、歌川国芳、白隠など、江戸の絵師の中でもアバンギャルド的な作家ばかりの展覧会。正直、観るまではそんなに期待していなかったのですが、いやはや....内容はとんでもなく充実した展覧会でした。

 

 それぞれの絵師の代表的な作品が目白押し!よくもまあ、こんなに質の高い作品を集められたものだなと感心させられる内容でした。日本国内の主な作品がほとんど集結してるんじゃないかというくらいの充実ぶり。

 

 蕭白にしても若冲にしても、まだ高く評価されていなかった明治の頃に、アメリカのフェノロサやビゲロー、プライスらに安い値段で買われてしまい海外に流出してしまったので、現在国内に残っている作品は大変貴重なのです。今回の展覧会は、そんな貴重な作品のかなりのものが集まった力の入った展覧会です。

 

 でも、改めて彼らの絵の前に立つとそのエネルギーには圧倒されます。絵を描くというエネルギーはもちろんのこと、作品からは、各絵師たちの生きるエネルギーがものすごい勢いで伝わってきます。世の中の常識をあざ笑うかのようなエネルギー、既成概念に反抗するようなエネルギー、人と違った生き方をして何が悪い!?といったメッセージ、反体制的なメッセージ、そしてスケールの大きさ....  そういったアンチテーゼがみなぎっているす。作品群。あの江戸の中期から後期にかけてこういう絵師が現れたのは、ある意味、今の時代と重なる部分があるんじゃないか?と思うのです。

 

 世の中が安定してくると、必ず政治レベルでも民間レベルでも不正が横行します。そこから、社会にはしらけや諦めムード、虚無感などが漂い始めます。あの「ええじゃないか」もそうですが、社会の鬱屈した状況から生まれてくるのがアバンギャルド的で非常識的なエネルギーではないか?と思うのです。その背景には、社会や生きることへの不満、物足りなさ、諦め、怒りといった感情の渦が存在するのではないか?

 彼らの作品からは、そういった「負から生じた生きるエネルギー」を感じるのです。

 

 

 

 『人生は一回きり。人と同じ生き方をするなんてバカバカしい。

  俺は自分が納得するように生きる。

  誰が何と言おうと、そんなこたあ、知ったことじゃない!!』

 

 

 彼らの作品からは、こんな叫びが聞こえてきそうです。

 

 そして、僕も彼らのエネルギーに包まれながらその生き方、考え方に深く共感するということ....それは、まさに僕自身がそういう常識にとらわれない生き方を希求しているということです。

 

 重い荷物を背負って美術館に向かう時の足取りは重かったのですが、展覧会から帰る時の足取りが軽かったのは、「今のお前でいいんだよ!」と蕭白先生たちが励ましてくれたからかな。

 

 

 

 

 展覧会は4月7日までやっています。こんな衝撃を受ける展覧会は滅多に観られないと思います。

 是非、美術館に足を運んで、江戸の異端絵師たちの「粋(イキ)」に触れてみて下さい。

 

 

 

 

 

 

俺も人と違った生き方で生きる                       2019/3/31